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No.443 【再度】思い出してホローリくる家族との思い出part4 より

355 :おさかなくわえた名無しさん :03/06/03 01:28 ID:tAe9j96t
私が小学生の時、父親がガンで死んだ。その直後から毎日朝7時から晩12時まで
3箇所のパートを掛け持ちで働いてくれた母。
4人も兄弟いたからいつもいつも貧乏で、電気、水道がよく止まった。
そんな時、「なんでウチはいつも電気止まるん?」と母に聞いてた。母はいつも謝らなくてもいいのに
自分達に謝ってた。 電話止まった時、「友達から「電話かけたけど、お前のところいつも
お客様の都合により・・って電話つながらへんやん」って言われたわ。めっちゃ恥ずかしいやん。」
って文句言うてごめん。 働いてお金を稼ぐ事のしんどさを分かって無かったよ・・。
阪神大震災で生き埋めになったけど、運良く助かったのに「なんで死ねんかったんやろ」と、
母が言うた言葉が忘れられない。
60超えても、顔がしわ増えても、お母ちゃんはお母ちゃん。
親孝行まだ出来てないけどごめんね。

653 :おさかなくわえた名無しさん :03/07/31 10:19 ID:Vc1FzEoD
実家が港町で蟹が取れるので、季節になると度々母が蟹を送ってきてくれていた。
ある日、母に「蟹は身を取るのが面倒でねー」と何気なく言ったのだが、その後送ってきて
くれた蟹は、見事にほぐした後の蟹の身パックだった。
驚いて母に電話してみると、「ほぐすのが大変だっていうから、一晩かけてほぐしちゃったよ(w」と笑っていた。
その電話で「その荷物の新聞紙にいいものが張り付いているから、ちゃんと見てね!」とも言われた。
良く新聞紙を見てみると、張り付いた一万円札が…。

いつも娘のウケを狙う母親だった。荷物に空瓶入れてタイトルが「○○(田舎の名前)の空気♪」とか、
留守番電話に入れる最後の言葉は「バイナラ」だったり…。

去年母が亡くなって、こういう凄い些細な馬鹿思い出が、私の中でホローリとくる思い出に変化した。

726 :1/2 :03/09/29 00:28 ID:+lpbx65Q
去年の春、弟が原因不明の病で入院した。

最初の病院では「一生治らない病気だ。」と言われたそうだ。
職場にいた私に父が電話をくれた。
電話の向こうでは泣いている母の声が聞こえた。
頭が真っ白になり、その後どうやって家まで帰り着いたのか覚えていない。

あきらめられなかった父は別の病院に弟を連れて行った。
前の病院からカルテを回してもらって即検査という運びになったのだが、
担当医がたまたま空いたベッドに弟をねじ込んでくれ、即日入院になった。
弟はそのころ体力的に限界状態になっていたらしく、通院は無理だったようだ。

私はその週末に弟の見舞いに行った。
入院したといっても病気の原因は分からず、毎日検査が続いていた。
入院前に自宅で2ヶ月以上寝込んでいたのだが、その頃と変わらず毎日高熱を出し、
顔も体もげっそりとやつれていた。
関節のいたるところに水がたまり、満足に歩くことも出来ない。
土気色の顔、ぶるぶると震える手。
食欲はまったくなく、苦しそうに横たわる弟がいた。

釣りとタバコとパチンコが好きな、私の知っている元気な弟の姿はそこにはなかった。

それでも苦しくてたまらないはずの弟は、私に心配をかけまいとして強がりを言っていた。

727 :2/2 :03/09/29 00:29 ID:+lpbx65Q
面会時間が終わり、両親と病室を出てから涙が止まらなくなった。

「代われるものなら代わってやりたい。」
なんていう台詞はお話の中だけのことだと思っていたが、
本当に代わってやりたかった。
なんで弟がこんな目にあわなきゃならんのか理解できなかった。



弟を永遠に失ってしまうんじゃないかと、怖くてたまらなかった。
その日実家に戻ると、テレビの上に釣り上げた魚をぶら下げた元気な弟の写真が飾ってあった。
母が、「また、この写真みたいに元気になれる日が来るのかな」と、ポツリとこぼした。

たまらなくなった。
二人で号泣した。
横で父も真っ赤な眼をしていた。



それから2ヵ月後、幸いにも弟は退院することができた。
病気は一生モノの特定疾患の一種だったが、最初の病院で言われたようなものではなかった。
いつ再発するかは不明だが、薬さえ飲んでいればとりあえず日常生活に支障はないらしい。
まだまだ安心できないながらもひとまずは落ち着き、自宅療養することになった。

その後、いろいろ忙しく実家には帰れなかった。
弟の経過が気がかりだったが、電話を入れることくらいしか出来ないまま時間がすぎてしまった。



今年の夏、実家に帰ると真っ黒に日焼けした弟がいた。
数日前に釣りに行ったと言い、どのくらいの魚を釣り上げたかを楽しそうに語っていた。
テレビの上にはまだ、あの写真が飾ってあった。それと弟を見比べ、心の底からホッとした。

横では母がうれしそうに笑っていた。
元気で生きているって、それだけでものすごく親孝行だと思った。

弟が元気になって、本当によかった。

786 :おさかなくわえた名無しさん :03/10/31 04:48 ID:p0wVbhod
俺は、父方のばあちゃんには三回しか会ったことがない。
一度目、二度目はすげえ子供の頃だったから、ほとんど覚えてない。

大学受験の時、俺は大阪の大学を受験するため、
在阪のばあちゃんの家に泊まらせてもらった。
駅まで迎えに来てくれたばあちゃんは、130センチくらい。めちゃ小柄。
俺が当時175センチだったから、本当に「大人と子供」くらいの差があった(年齢逆だけど)。

ばあちゃんの家までの道の途中、横断歩道で止まった。
信号が青に変わり、さあ渉ろうかという瞬間、
赤で止まった車と俺との間にばあちゃんは飛び込み、
左手で俺をかばいつつ右手を車に向かって高く上げた。
「○ちゃん、今のうちや。早よ渡り!」

繰り返すが、当時俺175センチ。18歳。ばあちゃん130センチ。古希は超えてた。

翌朝の朝ごはんは、ばあちゃんが買っといてくれた王将のチャーハンと餃子。
二人前ずつあるのに、ばあちゃんは手をつけない。
「ばあちゃんも食べなよ」と言うと、「あては後で食べるからええねん」
と頑なに手をつけず、俺が無理やり二人前食うのをニコニコして見てた。

結局大阪の大学には落ち、その後ばあちゃんに会うことはなかった。

787 :おさかなくわえた名無しさん :03/10/31 04:48 ID:p0wVbhod
ばあちゃんが死んだ、と親から聞かされたのはそれから7、8年してからだ。
三度しか会ったことはないし、「フーン」と思っただけだった。
遠かったので葬式は両親だけが行った。

その日も普通に出勤し、外回りの最中さぼってゲーセンに入った。
麻雀ゲームをやっていたら、なぜか急に大学受験のときの事を思い出した。

泊めてもらった日、「目覚ましかけてるから起こさなくていいよ」と言ったのに、
翌朝心配してタイマーより一時間も早く起こしてくれた。
コタツの上に置いた俺の眼鏡と自分の眼鏡を間違えてかけていて、
「全然見えへんと思ててん、ハハハ」と笑っていた。
俺が手を引いてあげなきゃいけないのに、逆に車からかばってくれた。

麻雀ゲームやりながらボロボロ泣いた。

実は、遺族と創○学会と役所が三つ巴でモメてて、
いまだにばあちゃんの墓は立っていない。
墓が出来たら必ず墓参りに行く。
王将のチャーハンと餃子持って行くから、今度は一緒に食べような。

944 :おさかなくわえた名無しさん :04/02/15 00:46 ID:LFV5VUGd
去年の夏、甥が実家の納戸から古い木琴を探し出してきた。
私達兄弟が使っていたものだ。
それを父が直して甥が叩いて遊んでいた。
それにあわせ私の娘が、タンバリンを叩きながら躍る、
更に父が合わせハーモニカを吹く。
いつの間にか「おててつないで」の合奏。

冬には母が娘に「あやとり」を教えていた。
私はマフラーを編んでたのに、思いつきもしなかった。
4歳の子供に何度も何度もやり方を教えていた。
姉や妹の借金の肩代わりをして、孫におもちゃを買ってやることもできない
せめてできることはしようと思ってか、自分のできる精一杯の遊びを教えたのだろう。

ちょっとボケ始めてきた祖母も、行けば訳の分からない子供たちの話相手を
ニコニコと聞きながら、笑っている。
不自由な足を動かし、私にお茶や、お菓子を出してもてなそうとしてくれる。


実家の両親は、未だに諍いが絶えない。
祖母は何もできずに、争う声がやむのを
イヤホーンを付けTVを見て待っているらしい。
そう思うと、悲しくて切なくなってくる。
子供たちと接してる時のように
穏やかにしていて欲しいと、いつも帰り道泣けてくる。




     

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