オヤジとサシで・・・ より
- 337 名前:呑んべぇさん 投稿日:2001/08/24(金) 01:36
- 台所で炊事をしながら母さんが言ったよ。
「おとうさんの病気はね、告知をするとかしないとかそういう類のモノなの」
現実感がまったくなくて、
親父がいなくなるというコトがとても信じられなかった。
下着だけで家の中を歩き回る親父の姿とか、
風呂の中から「タオル!」と母親を呼ぶこととか、
なんかホントーにどうでもいいことばっかり思い出してさ。
そんとき、親父が元気になったら一緒に飲もうと思ったな。
幸い病気は最悪の状態じゃなくて、胃の3/4を切除にとどまった。
しばらくたって、家族で親父行きつけの寿司屋で誕生日を祝ったよ。
「酒はいつもなにを飲むんだ?」って聞かれたから、
「だいたい日本酒だね、いちばん好きかな」
っていいながら一緒に飲んでやったら
なんかすげー朗らかに笑うのよ。もうニッコニコ。
なんだ!こんなに嬉しいものなのか!?と真剣に思ったね。
ホントは日本酒、あんまし好きじゃないんだけど、
親父くらいにおいしそうに飲めるようになりたいな。
たとえ血のつながらない親子でも、なんかぜんぜんいいや。
- 357 名前:呑んべぇさん 投稿日:01/08/31 16:13 ID:LhGcUnIY
- 私は父と差しで飲むことは出来なかった。
良く思い出すのは「最近、妙に疲れやすくてな」と少し猫背気味になって
話す父の姿。検査のために病院に行って、それから3ヶ月後。
あっという間の出来事だった。
「お父さん」を「オヤジ」に呼び直す機会を永遠に失ってしまった。
「オヤジ」と親しみを込めて呼べる人が少々羨ましい。
- 372 名前:呑んべぇさん 投稿日:01/09/05 02:39 ID:jOU1T3JI
- このスレ、めちゃめちゃ泣けますね。
ロム専門が思わず初カキコ。
私には、サシで飲めるオヤジはもういません。
私が15、弟が12の夏、突然逝ってしまいました。
明るい酒を飲む人でした。友達も多かった。
太く短い人生って、ああいうのを言うんだろうと思います。
一度も一緒に飲むことは出来なかったけど、
酒の飲み方は父に教わりました。
明るい酒は私の信条ですし、
幸い一緒に飲んでくれる友達も沢山います。
天国があるなら、きっと天国で飲んでるお父さん。
ありがとう。
私が楽しく酒を飲めてるのはお父さんのおかげ。
ああ、今、お父さんと飲めたら、どんなに嬉しいだろうなあ。
- 377 名前: 投稿日:01/09/07 21:33
- 私の母は未婚の母です。父は本妻さんと、私の腹違いの兄姉夫婦と暮らしてます。
二人はもうそういう関係ではありません。が、私がたまに郷に帰ると、電話が来ます。
「酒のもう」と。で、指定された店に行きます。
と、席に付いた途端、酒から刺身から寿司、テンプラと、ものすごい量の料理が
テーブルに並びます。父が予約で、料理を一から注文しておくのです。
父はもうとうに還暦を過ぎて、身体の調子も良くないというので、料理にほとんど
手を付けず、私の方に押しやります。「食え、食え、もっと食え」とエンドレスに言います。
父は、自分の酒は必ず手酌で、私にばかりお酌します。私の酒杯は常に満タンです。
食べきれない・飲みきれないでふうふう言って、店を出る頃、父は「何か困ってることは
ないか」と言います。旦那の仕事は上手くいってるか、暴力なんて受けていないか、
体は大丈夫か、お金に困ってないか、と続きます。「なにもかも大丈夫」と答えます。
最後に父は、目をそらして「お前には何もしてやれないで、申し訳ない。」と必ず言います。
「世の中には償えないことがある。」と言うのが父の口癖です。
父は、私の祖父の前で、
「誰に何を言われても別に何も構わないが、娘は俺に文句のひとつも言わない。
それが俺のした事の罪だ」と言って、泣いたそうです。
- 412 名前:sage 投稿日:01/09/21 00:43
- >>407
私の父は自分の父親、つまり私の祖父を知らない。
祖父は父の生まれる3日前に出征して、南の島から骨すらも戻ってこなかった。
ある時酒の席で父が「今でも親父が南の島で生き延びているかもしれない気がする」と
話したとき、なんともやりきれない気持ちになった。
写真の中でしか見たことの無い、親子の触れ合いすら無い「父親」に対して
父がどんな思いを抱いてきたのか私には想像もできない。
私もいつかあなたのように、父との思い出に涙する時が来る。
だけど私の父のように、父親の記憶が片鱗も無いことに比べたら
ずっと幸福なのだと思ってる。
私もいつか父を送る時が来る。その時は言いようもなく苦しいだろう。
だけど父が私を送るような親不孝よりは遥かにマシだと思っている。
あなたのお父さんは、あなたを悲しませるために思い出を残したのではないのだから。
- 473 名前:ヘ(゚д、゚)ノ 投稿日:01/10/19 23:56
- 昔、ずっと親父の暴力に耐えてた。
子供やお袋に暴力をふるう親父が大嫌いだった。
俺が24の時、帰省した時親父が一言。
「飲みに行くか?」
すっげぇ行きたくなかったけど・・・
行って良かった。
酔っ払った親父の一言が今でも耳に残ってる。
「すまなかった」
親父、先月紹介した彼女と来年結婚するからな。
招待するからな。絶対来いよ。
- 484 名前:大人の名無しさん 投稿日:01/10/24 16:18
- ああああ。切ないスレ発見。
私の父ちゃんは私が20歳の頃に肝臓癌で亡くなりました。
実はその前には、刑務所に4年服役していて、出てきたと思ったら
あっけなく末期癌になっていってしまった。
つかの間の1年間、いっしょに酒を呑みによく行きました。
「娘よ」を歌うと、必ず泣いていた父。
私は、末っ子で、父が40過ぎに出来た子供だったので、本当に
愛してくれた。
母がいない分、寂しい思いをさせまいと、不恰好な弁当も作ってくれた。
化けてでもいいから会いたいと未だに思う。
あれからもう11年経ちました。
夢でいいから、夢でいいからいっしょにまた酒呑みたい。
父ちゃん、あなたは私が死ぬまで私の1番愛する男性です。
いかん、泣いてしまった。
- 496 名前:呑んべぇさん 投稿日:01/10/29 01:34
- 両親が離婚して、私は母方についた。
数年してから父に飲みに行こうと誘われた。
正直、めんどくさいから嫌だなーって思ったんだけど、行く事にした。
その理由は、「逃げ出した父」を前にして自分が何を思うのか知りたかったからだ。
私には兄弟が二人いるんだけど、その二人とも父に対しては
憎しみや嫌悪感があるらしい。
私は父に対して何の感情も湧かない。でも、会ってみたら何らかの感情が湧くのでは
と、思い、会ってみる事にした。
前より少し痩せた父親に再会。
父は、今どんな風に暮らしているのか、私たち兄弟は元気なのか
母は元気なのか・・・などどいう事を飲みながら話した。
私はただ酒を流し込みながら、聞かれた事に答え、父の話を聞いていた。
特に盛り上がらずに店を出た。量としてはかなり飲んだのだけれど、私は酔えなかった。
少し歩いたところで、父親が私を突然抱きしめ「何かあったら力になるからいつでも連絡して来い」
と、連絡先の書いてある小さな紙切れを私に握らせた。
そして、そこで父と別れた。
- 497 名前:呑んべぇさん 投稿日:01/10/29 01:34
- 私は歩いて家に帰ることにした。
一人で暗い夜道を歩く。
涙が出た。
私は再会した父に対して、何の感情も湧かなかったのだ。
憎しみも、嫌悪感も、憐れみも、愛しさも。
何か、何か思うだろうと期待して、そして会う事にしたというのに。
兄弟たちが羨ましい。少なくとも憎しみや嫌悪感という感情と共に
父を想う事ができているのだから。
私は泣いた。私の中で父は抹消されている。
何も感情が湧かない自分が悲しくて、泣きながら歩いた。
私は非常にお父さんっ子だったのだ。それなのに。
とぼとぼと歩いていると、一台の車が近づいて来た。
母だった。母が迎えにきてくれていた。
車の助手席で、私は「まあ、元気そうだったよ」と母に言った。
母は「そう」とだけ答えて何も言わなかった。
内心複雑なのだろう。母と父は離婚という形で切れてしまっても
私たち兄弟は父と一生血の繋がりというものがある。
「退屈だったよ」と言ったら、母は苦笑していた。
母も父に対しては何らかの感情を持っているはずだ。夫婦だったのだから。
私は血の繋がった親子なのに、何一つ想う事は無かった。
ただ、そんな自分が悲しかった。
もう、父親に関する記憶は薄れてきている。
もう、父と酒を飲むことはおろか、会う事も無いだろう。
- 515 名前:512 投稿日:01/11/03 00:45
- >>514
ありがとうございます。親父はもう2回も心臓のバイパス手術をしてるし、片目の
視力もなくなってきてるみたいだし。あとどれだけ一緒にいられるかわからない。
でも、彼が向こうに行ってしまう前に、ちゃんとお礼を言おうと思う。戦争で両親
を亡くし1人っきりで戦後を生き抜いて、それから母親と会って結婚して。僕が
生まれてからも、「孤児だから。」とか「学校行ってないから。」とか、いろいろ
苦労を強いられながらも、ちゃんと僕を育ててくれた事にお礼を言おうと思う。
いつもは適当に酔っ払いながら2人で軽口たたき合ってるけど、その時だけは、
僕も飲まないで素面でお礼を言おうと思う。「お父さん、貴方のおかげです。
ありがとう。」ってちゃんとお礼を言いたいと思う。
スマソ。酔っ払っております。よってsage。
- 521 名前:名無しです 投稿日:01/11/08 23:40
- 俺の父親は進学するため分かれて2ヶ月目にくも膜下出血で右脳をやられ
それから10ヶ月後にリハビリセンターで倒れて左脳をやられ死んだ。
焼酎とタバコが好きで、しつけや厳しい父親で何度も素手や竹刀で叩かれた。
結局父親と飲んだのは俺が高校を卒業して家族から別れる時に行った焼肉屋
で見せた小ジョッキ一気飲みだけだ。
あの頃は自分の価値観を容赦なく押し付けてくる父親が大嫌いだった。でも
2回目の倒れる直前リハビリセンターに行った時に見た、長い入院生活ですっかり
肉の落ちた父親の足が忘れられない。あの剣道有段者で恐怖の対象だった
父親が・・・。
このスレを見ている皆さんで、父親となにかトラブルから別居していたりして
いる人がいたら悪いことは言わないから、自分の中で釈然としない納得できない
感情があっても父親に会って頭を下げてごらん。そして一緒に酒でも飲んでみて。
絶対誤解やすれ違いがあって喉に引っかかった魚の骨がとれるように楽になるから。
俺は父親が生きている人がうらやましい・・・・・。
- 543 名前:呑んべぇさん 投稿日:01/11/16 04:03
- 今まで、このスレはタイトルで誤解してました・・・(w
こんなに涙と酒を誘うスレだったとは。
ことごとくガイシュツな話で申し訳ないんですが、
うちの父親も酒飲みで、子ども達は父親に脅える家庭でした。
思春期に案の定私が捻くれてしまって、
そのまま父親と話す事もなく、大学の為に実家を離れました。
その後いろいろとあって、わだかまりも解けだし、
数回ほど一緒に飲む機会もありました。
まぁ、これもガイシュツで、その父親も今年の夏に他界してしまったのですが。
親子共々極度の照れ屋だったので、、、
少しビールが入ったぐらいでは話ができないような感じで(w
それでも、酒の席で私の将来の話がでた時に、
その場の雰囲気で「父親と同じ職業を目指そうかな」なんてほのめかしたら、
年甲斐もなく居酒屋で泣いてて、母と娘にからかわれてました。
とりあえず一回忌までは、父親をネタに母親と涙なしで飲むことにします。
武勇伝から何から、ネタの豊富な人間だったので、尽きる事はないと思います。
母親もそんな話も身内じゃないとなかなかできない事だろうし。
他の人のレスにもありましたが、
「いつかは仲直りしなきゃ」と思っているだけの人、動いておいが方がいいですよ。
照れくさい人は「いいお酒が手に入った」とか口実作って飲みに誘うとか。
事故で突然いなくなられたら、照れや見栄が一生の心残りになってしまうんですから。
仕事ばかりで家庭の事なんて顧みない人だったけれど、私が捻くれていた時に
「わしの事はどう思ってもいい、お母さんを悲しませる事だけはするな」と怒鳴られた事があります。
当時の私は額面通りに受け取っていましたが、年をとるにつれていろんな真意が少しずつ見えてきた気がしました。
もっとも、死をもって解るなんて辛過ぎますが。
あー、もうちょっと酔いたい。葬儀の時から泣く事我慢してたけど、ようやく解き放たれそう。
駄文長々とスマソ・・・・・・・・・・・
思い出してホローリくる家族との思い出Part2 より
- 373 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/04/20 01:26 ID:t9tVnDoU
- 数年前に親父を亡くした。
自分が成長するとともに、親父とはそりが合わず、比較的近くに住んでいながら、
年に1〜2度くらいしか顔を合わさなかったのだが、倒れたとの知らせを受け、
病院に向かったらすでに意識不明で、そのまま旅立ってしまった。
葬儀が終わってから半年くらいの間に何度も親父の夢をみた。自分が中学・高校くらいだろうか。
何か心に引っかかり、葬儀の後もらった遺品の箱を覗いたら、30年以上使っていた腕時計が
あった。古い自動巻き?の国産品でそれほど高い物ではなかったが、会社の功労賞でもらったとか。
手にとって振ると、ジーッという音がして動き始めた。
その日以来、形見の時計を日常使っている。母に聞くと「何度か分解掃除や修理をして大事に使ってた。
何年か前に修理したとき、もう部品がないので、今度故障したらもう直せませんと言われた」とのこと。
40も半ばに差し掛かり、すこし恥ずかしいが、親父の人生の後半生、あまり会話できなかった分、時計
に語りかけて埋め合わせしているような感覚だ。
この腕時計もおそらくもう、何年も持つまい。こいつの最後を見届けることが親父への供養だと思っている。
- 375 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/04/21 00:38 ID:dfPcnZAw
- 私が2人目を出産するちょうど1ヶ月前に父は他界しました。
病気が発見された時、すでに余命1ヶ月と診断されていたそうです(告知せず)
きっと家族で過ごすお正月はこれが最後でしょうから入院はお正月明けにしましょう
とゆうことになりその年のお正月は親戚一同で楽しく過ごしました。
集まったみんな、顔で笑って心で泣いて...。
父が入院してから毎週お見舞いに行きました。会うたびに痩せてゆく父、
ベット脇のロッカーをそっと開けると父の一張羅の見慣れたスーツが吊るしてありました。
『あぁ これを着て家に帰ることはもうないんだな...』と思ったらすごくすごく哀しくて
涙が溢れてきました。
父に悟られないよう廊下で泣きました。
私は父と色々な話をするのが大好きでした。父はその日にあったことをおもしろ
おかしくよく私に聞かせてくれて笑わせてくれました。
姉や妹はとても甘え上手です。ベットの父に抱きついては退院したらね...等と
退院した時の話をするのです。でも私はできなかった...生きて退院するはずのない父に
そんな話、できなかった。本当はもっともっと父に甘えたかった。いっぱい話したかった。
姉や妹が羨ましかった...。
ベット脇に立っていると父がそっと私の大きなお腹をさすりました。
口下手な私はココでも気の効いた言葉をかけられなかった...。
さりげなく廊下に出て涙をぬぐうことしかできなかった...。
幸い、父は苦しまずにこの世を去りました。
結婚式の前の晩、シングルベットに並んで手を繋いで寝たこと忘れません。
この時も何も感謝の言葉が言えず『ありがとう』しか言えなくてごめんなさい。
父のお葬式の1ヶ月後に生まれた次男も今年から1年生です。
って知ってるよね?いつでも側に居てくれてるような気がするもん。
長文ごめんなさい。
- 378 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/04/21 06:22 ID:Vo/QozzY
- >>377のファミコンで思い出したよ。
小学校4年のころかな。
うちにファミコンがあったんだけど、TVと繋げる線の部分が調子わるくて
画面の50%は砂嵐。(ツーコンを微妙に動かすとたまに画面が綺麗になる場合もある)
でもファミコン大好きだったからそれでも毎日あそんでたね。
そんな砂嵐ファミコンで夢中で遊ぶオレにオヤジもブチ切れですわ。
「そんな画面ばっかみてたら目がわるくなるだけだ!
そんなもんもーすてるそ!」と。
うわぁ〜捨てられる。ファミコン捨てられる。。。と一晩中考えてました。
んで翌日土曜日。
学校が早く終わり「よし!ファミコン修理しよう!」と決心。
綺麗な画面で遊べば目もわるくならないからファミコンも捨てられない。
と考えた賢い俺。(修理っていっても分解して中のホコリを取り除くだけ)
んで「いざ分解!」ってときに、いつもは簡単に抜けるTVとファミコンを繋ぐ線が抜けない!
抜けないわけが無いので強引に引っ張る。でも抜けない。足でファミコンを固定し、コードを両手でひっぱる。
すると線はブッチーーーンと途中でちぎれましたわ。
- 379 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/04/21 06:23 ID:Vo/QozzY
- 「終わった。。オレのファミコン人生はもー終わった。。線がちぎれちゃファミコンできねー。。
こんなことならあの砂嵐のほうがよかったな。。」
と肩をおとして落ち込んでるとこにかーちゃん帰宅。
母「どぉ!?ファミコンなおってたでしょ!?ふふふ。
おとーさんが今朝直してくれてたよ。お礼いっときなさいよ。
・・・あれ?どした?」
!?どゆことだ!?
聞けば接続が悪くなっていた端子を本体内部のボードにハンダで直結したそうな。
オヤジにすごく悪いことをした気がした。
落ち込んでるとこにオヤジ帰宅。
「とーちゃんありがとー!」とくるのを期待してたであろうオヤジ。
しかしそこには半泣きでしょぼくれたバカ息子とブッチーーンとなった哀れなファミコンの線。
絶対に怒られる!と思って覚悟してたのに、怒るどころかむしろ穏やかな顔で
父「あー。なんか書いておいておけばよかたなぁ。」
そーいってニッパーやハンダゴテをとりだしてもくもくと修理開始。
その姿をずっと見ながら、恥ずかしくて口にはだせなかったけど
「オヤジごめんな。ありがとな。」ってずっと思っていた。
実家の押入れに眠っているそのファミコンは
最近のPS2なんかよりも何倍もかっこいいぜ!
- 383 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/04/21 21:03 ID:???
- 幼児のころから、母には虐待されて育った。
子供らしい些細なまちがいをしただけで、一晩中、執拗に殴られた。
髪を掴まれ逆さに水風呂に突っ込まれて、呼吸がとまったこともある。
立てた襟に首をひそめて、絞められた痣を隠しながら学校へ通った。
ようやく18歳になり、私は待ちかねたように家を出た。
何年か経ち、母が倒れたと病院から電話があった。
深夜病院に着いたのは、緊急手術が終わったあとだった。
倒れたときの意識状態が悪く、おそらくは・・・と言葉を濁して
執刀医が去ったあと、私はICUの前で立ち尽くしながら夜を明かした。
朝になり、体がもたないよ、と知人がマクドナルドを買ってきてくれた。
私は礼を言って受け取り、病院の待合室で食べることにした。
ああこんな味なのか、と思いながら、少し苦笑した。
いい年をして、そういうものを食べたのは初めてだったからだ。
なぜだろう・・・と考えて、稲妻のように思い出が駆けめぐった。
服は全部、型紙から起こした母の手縫いだった。
子供には少しでも安全な食べ物を、とずいぶんな手間をかけて、
母は無農薬の野菜や無添加の食べ物だけを買い集めていた。
おやつはいつも手作りで、出来合いのものを食べさせられたことは
一度もなかった。
ファストフードを食べない習慣が、いつか私にも受け継がれていた。
少し性格が弱く、生真面目なだけがとりえの母が、完璧な母親らしく
あろうとして追い詰められていた苦しみを、理解してあげられなかった。
母は母なりの地獄を抱えながら、精一杯愛そうとしてくれていたんだ。
外来患者がざわざわと行き来する待合室の長椅子で、声が漏れないよう
マクドナルドの紙袋をきつく顔に押し当てながら、私は黙って泣いた。
- 415 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/04/28 17:43 ID:K/jVKnr2
- 実父は、私が2歳の時にくも膜下出血で他界。
それから4年後、母は現在の父と再婚しました。
まもなく母は妊娠しましたが、母方の祖母が
「いま子供が生まれたら、あの子(私;当時7歳)に愛情が行かんようになる。
かわいそうや」と母を説得し、結局母は赤ちゃんを中絶しました。
父にしてみれば、生まれて初めてできた子供をおろさなければならず
とても悔しい思いをしたにちがいありません。
(初めてこの話を聞いた時は、ショックと申し訳なさで一杯になりました)
ですが、当時もちろん何も知らない私は短気な父のことを
「こわい人」と、内心嫌っていました。
私が10歳、11歳の頃に続けて母は妹と弟を出産。
その頃から、父は少しづつ変わってきました。
母と価値観が違う私は反抗期のせいもあり、真っ向から対立。家の中で孤立する
私を優しく、時に厳しく諭してくれたのは父でした。
不思議と、母よりも父の方が私の寂しさをよくわかっているようでした。
結婚式の日には、生まれて初めて父の目に涙を見ました。
血の繋がらない私を、実の子供と同じように扱い
育ててくれた父に、そして父と私の間に立ち、自ら悪役?を買って出て、
互いが憎みあったりすることのないよう心を砕いてくれた母には、
どんなに感謝してもしきれません。
今は離れた地にいますが、たまに母と電話すると
「パパは一日おきに『○○(私)はどうしてるんや、電話かけたか』って
うるさいのよー。自分でかければいいのにね」と聞かされ、じわっとくるものを
こらえるのにちょっと苦労します。
もう戻ることはないけれど、5人で過ごした実家でのあのにぎやかな日々は、
私の人生の宝物です。
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