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ネットだから書ける貴方の人生物語 より

235 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/12/01(金) 10:46
岩手県にて生まれる

幼少の頃はごくごく平凡な特に優れた点もない子供だった
中学へ入り成績は中、スポーツも中、身長も中、というように
なんでも全体の真ん中へんに陣取っていた。

高校時代はラクビーをしていたが、なんせ雪が降ると中止せざるを
得ないぐらいに豪雪地帯だったので、強くなれるはずがない。

高校から推薦で地元の国立大学へ進学。
普通に出席、普通に単位取得、普通に卒業と考えていたが、
3年の時に交通事故(被害者)で左足が動かなくなった。
1年留年したのち無事卒業できたが、就職先が見つからない。

福祉団体のすすめもあってか、デスクワークのみの仕事があるとき聞き
すぐさま申し込んだ。今ではそこのセンター長として仕事に励んでいる。
左足は未だに動かないので、移動には車椅子を使っているが、
近々自動車の購入を考えている。

健康がいかに大切な事なのかは、このような体になって初めて
気づくことである。
もっぱらの楽しみと言えばインターネットである。
2ちゃんねるも毎日見ている状態だ。
現在40歳になるが、同年代の人たちには体が不自由でも負けたくない


293 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/12/02(土) 16:56
昭和20年 静岡県に生まれた

7人兄弟の末っ子だったので両親からはかなり可愛がられた記憶がある。
兄弟の中では一番成績が優秀だったので、貧しいながらも旧制中学へ進学した。
一浪の末、早稲田の政治経済へ進学。ジャーナリストになりたかった。

大学4年の時、つき合っていた彼女が妊娠したので、学生ではあったが結婚をした。
当時は学生結婚は大変珍しいことである。彼女の実家へ足を運んで、ご両親に
土下座をして謝罪し、結婚を認めてもらう御願いを申し出た。

就職は朝日新聞社へ入社し、政治面の担当となり、後藤田の番記者として活動した。
あの頃が一番輝いていたと思う。新聞記者というのは、つき合いが全てと考えても
いいぐらいに交流関係が必要な職業である。連日連夜の酒浸りの日々を何年も続けた。

体調の不調を上司に訴え、慶応病院へ入院、そこで宣告された「第4期のガン」と。
ショックだった。もう記事を書けないと思った。
コバルトを浴びているので、体毛が抜けてきた。自分の体の変化は一目瞭然に認知できた。
きっと完治することは無いだろうけど、今はこうして病室でキーボードを叩いている。

あえて担当の医師からは余命を聞かない。いや、聞きたくない。
何か子供達に残してやりたいが、残してやれるものは何一つ無い。
情けないがこれが現実である。せめて子供達には父親の生きざまをしっかりと見て
いてもらいたい。

最後に聞きたいことは、子供達からの「父さん 好きだよ」って言われてみたい。




385 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/12/04(月) 23:13
今 常々考えると俺の今までは暗かったな〜

茨城で生まれて 父ちゃんは酒ばかり飲んで働きがなくて
母ちゃんは水商売だから毎晩のように違う男のところへ行っては泊まってたし
姉ちゃんは聞いた話だが吉原でトルコ嬢やってたそうだから家庭なんて持てねぇし

学生時代はお水の子なんてバカにされて近所からはつまみはじきにされて
親戚なんかも知らん顔で冠婚葬祭だって呼んでくれねぇ有り様

最後に親戚一同が介したのは婆ちゃんの葬式だったなぁ

俺もグレてたのも悪かったけど警察のご厄介にはなったことはねぇぞ
父ちゃん母ちゃん姉ちゃんとも15年は合っていねぇなぁ

やっぱ、やりなおしてぇな こんな人生
生まれた環境は俺には変えられねぇ

今38だけど、妻と子供にだけは俺の見てきたもんは経験させたくねぇ
だから、やっていられるのかもしれねぇな

横で可愛い愛娘がお絵かきしてらぁ 早く寝ろよって

448 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/12/06(水) 20:44
愛知県生まれの33歳 職業:僧侶

私は寺の子供ではない
僧侶になったきっかけは17歳にさかのぼる

健全な両親のもと、順調に育ったつもりであった。
それが私17歳の秋に2つ年下の妹が自殺した。
ショックだった。他人の話にしてもらいたかった。
イジメにあっての自殺だった。
学校の運動場にある木に首を吊った。
小さな町だったからあっという間に知れ渡った。

その時思った。
イジメた奴らを殺してやるって。
マジに殺すところまでいった。
自宅を調べて、待ち伏せもした。
鞄の中には包丁を隠していた。

そのような光景が怪しかったのだろう。
お坊さんが偶然声をかけてきた。
今でも覚えているその時の言葉を。
「〇〇〇さんのお兄さんですね?」 俺の妹の名前を言った。
その時、ハッと我を取り戻した。

なんでか知らないが、その場で大泣きしたのは覚えている。
それから、知った事だが、そのお坊さんは家の墓があるところの住職だった。

大学で哲学を学んだ。
妹の自殺を忘れようと、哲学書を読みまくった。
京都へいったとき、転機が訪れた。
そこのお寺では尼さんがいた。
いろんな話をした。
偶然・偶然にも妹の名前と同じだった。

私情を話していくうちに、ここなら妹の事が忘れられると思った。
妹の歴史自体を忘れるのではない。
なかなか言葉に言い表せないが、妹の何かを忘れられる空間なのだ。

他人からは妹の事は忘れろ!と言われるが、この状態では社会に出ても自立はできないと思った

今は仏門に入ったが、気持ちが落ち着いている。

いままでの方々の意見を読んでいるうちに、自分の事を書いてみたくなった。
素直に気持ちが出せた。

754 名前:18歳 女 投稿日:2000/12/15(金) 19:53
生まれ  私3歳、弟0歳の時近所の不審火で家全焼、母親焼死、私背中全域にケロイド、弟火傷が元で
     足に障害が残る、父親も助けに入って大火傷、生死をさまよう。
幼稚園  背中のケロイドと弟の足と母親がいないせいで深刻ないじめに合う
     弟とじっと我慢。
小学校  体育の着替えと母親参観が恐怖の日々、夏のプールの時間は・・・
     ここでもいじめ、弟は障害が悪化の為、施設へ、離ればなれに。
中学   父親長い闘病の末、合併症の為死亡、叔母の所へ預けられるも学校から帰ると
     従姉妹は居ましたが私だけ掃除、洗濯、家事にとこき使われ勉強も深夜2時から
     始めはやさしかった叔母は「やけどの居候はゆるさん」とだんだんきつくなってゆきました。
高校   進学は諦めていましたが担任の強い勧めで県立高校へ、弟の足が何故か悪化、車椅子に、
     後で解った事ですが施設でのせっかんが原因でした、アパートで弟と兄弟だけで
     暮らしたかったのですがお金も有るはずも無く、アルバイトでお金をため始めました。
高校中退 偶然弟がせっかんされている現場を見て、思わず弟を施設から連れ出し歳を偽り、風呂もないアパートを借り、
     母の形見の毛布一枚二人で包まってふるえて寝ました、カップ麺一つ二人で食べて、それでも幸せでした
     又、歳を誤魔化して近くの縫製工場へ弟はアパートで内職をしてくれました。
     私が頑張って弟を夢にまで見た東京ディズニーランドへ連れていってあげたい、テレビもファミコンも買ってあげたい、
     でも不況でこの縫製工場も閉鎖するそうです、このコンピューターも使えなくなります。
    
     天国のお父さん、お母さん何度も死のうと思いましたが二人の分も弟と
     生きられるだけ生きてみます、お母さんの顔も声も覚えてないのですが
     天国では私が見つけられますか?天国では会えますよね?家族揃って暮らせますよね?
         





     

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