父の作った忘れられないもの より
- 868 名前:心が洗われた名無しさん 投稿日:02/04/09 11:39
- うちのオヤジも例に漏れず、不気味なモノよく作った。
煮魚入りラーメン(カレイ)とか、材料すらよくわからなくなってる不気味な半固形物とか。
でも、スキヤキだけはうまかった。母親もスキヤキだけは手を出そうとしなかったな。
漏れが就職して家を出てすぐにガンが見つかって、それからは入退院の繰り返しで、
もう末期でどうしようもない状態になっても、オヤジもそれを知っていたけど、また
オヤジのスキヤキを食わせてくれと頼んだら、元気になったら食わせてやるといって
たんだよね。
だって、本人は最後まで絶対にあきらめてなかったから。
奇跡を起こしてやるって最後まで言って、食道、肺、胃、肝臓にガンが転移して
からも、ガンに勝つんだって言って体力の続く限り食事をあきらめなかった。
最後に家族みんなで、無謀にも病室で鍋をした。
といっても一人鍋で、みんなでつついたんだけど。
兄貴が鍋と固形燃料買ってきて、病室で鍋作り出したときはびびった。
でも、オヤジは食う体力もなかっただろうに、すごくうれしそうだった。
兄貴は遠くで働いてたから、それから手紙を残して帰っていった。
『僕はお父さんの子供であることを誇りに思ってます。ラガーマンだったお父さん
から学んだことは、ノーサイドの瞬間まで決してあきらめないということです。
お父さんも僕たちの為に頑張ってください。』
という趣旨の内容だったと思う。
オヤジはそれを読んでボロボロ泣いて、それから1ヶ月くらいして、家族みんなが
見てる中で、死んじゃったんだけどね・・・。
- 46 名前:もぐもぐ名無しさん 投稿日:02/05/15 00:17
- 中学の初めての夏休み、祖父の初盆だった。
家族みんなで泊まりに行った。
妹たちはまだ小学生で、中1の私だけが、お盆が終わるとクラブ活動が始まる。
それが、大人になった気分でうれしかったのと、いつまでもみんなと遊んでい
られない寂しさもあった。
仕事が始まる父と、二人だけで帰ってきた。
クラブに行く朝。
当時学校の近くに店は無かったので、お昼はどうしようかと悩んだ。
食べなくてもいいと思って家を出ようとしたとき、父がハンカチの包みを渡し
てくれた。
お昼時間に、友達や先輩とお弁当を開けて、ビックリした。
父の手のサイズの、とても大きなおにぎりが二つ。
火であぶっていない海苔で母のおにぎりと違って見かけない色で、塩味もなく、
はっきり言ってマズイものだったけれど、食べながら泣いた。
みんなの前だと分っていたけれども。
そのころ父とはぶつかってばかりで、あまり会話が無かった。
帰ってきても礼を言うこともせず、それ以降も同じように会話は無かった。
私が中2の春に、父は急死した。
あのときに素直になっていればと今でも思う。
- 51 名前:ちんこ 投稿日:02/05/15 10:43
- 俺の父親は俺が中1の時、女つくって出て行った。
親父が作ってくれたものの一つは女だが、
もう一つ作ってくれたのは2000万円の借金だった。
しかも置き土産として残していってくれた。
その借金は母が一人で抱え込んだ。
母はバカ息子2人をりっぱとはいえないまでも育てあげ、
数年前、すべての借金を返済しきった。
俺も含む2人のバカ息子は全く手を貸さなかったので、
誰の手も借りずに、20年ばかしかけてたった一人で返した。
母の人生はマイナスをゼロにするためにほとんど捧げられた。
家庭内は怒号と嗚咽の繰り返し、醜い口論ばかりだった。
俺が小学生の頃からずっと、口をあければ金の話だった。
母の人生を思うとき、それは華やかでも平凡でもなかったが、
悲しみに彩られた手ごたえのある人生だったのではないか、
最近少しだけそう思う。
最近は子供も手を離れたので、友達同士で国内旅行をしたりしている。
たまに手紙がくるけどあんま読んでない。
母親の事は昔から大嫌いだった。
でも働いて自活し始めて、生きることがどれだけ大変か知り、
母親がどれだけすごい人だったのか痛感した。
今でも嫌いだけど、同時にすごく尊敬してる。
昨日ちょっと遅くなったけど、宅配で花を贈った。
親父があんま出てこなくてごめんにぇ。
- 59 名前:もぐもぐ名無しさん 投稿日:02/05/16 22:02
- お味噌汁。具は大根とほうれん草とじゃがいも。
別になんてことない物なんだけど、
私が中学生だった時に母親が病気で1ヶ月くらい入院してた時に作ってくれた。
最初は私が家事をやっていたんだけど、部活動とかテストとかで
もう家事をやるのが嫌になって放棄してしまったら父親がご飯作ってくれた。
後にも先にも父親が台所にたったのを見たのはこの時期だけ。
今思えばお父さんだって仕事忙しかったと思うんだけどね。
結婚して時々この具でお味噌汁作るとお父さんの優しさを思い出すのさ。
- 67 名前:もぐもぐ名無しさん 投稿日:02/05/19 02:58
- 前スレ昨日で読んだよ・・・・あんま泣かせないでくれよ・・・・
私も少し駄レスでゴメン。
私は幼い頃から、すっごいお父さんっ子だった。
中学高校ぐらいになったら、よく女の子供はお父さんと話さなくなったり、
一緒に洗濯物洗うのイヤがったりするって言うけど、
私はむしろ勝手にお父さんのパンツを自分の洗濯物と一緒に洗ったりして、
お父さんが逆にビックリしてるくらいだった(笑)。
大きくなったらお父さんみたいな人と結婚したいなって、思ってたよ。ホント。
さすがにお父さんの前では、さすがに言えなかったけど。
ウチのお父さんは仕事一徹の堅物で、趣味といえるものは晩酌とテレビでプロ野球見るぐらい。
当然料理なんてサッパリで。
普段は感情がほとんど外に出ない人なんだけど、お酒飲むときだけ饒舌になった。
そのお父さんの夢って言うのが、後からお母さんに聞いたんだけど、
「娘と一緒にビール飲みながらテレビで野球を見ること」(笑)。
高校生の時にお父さんと一緒に飲み始めてから(汗)、晩酌の相手は私になって。
料理はさっぱりなお父さんなんですが、この晩酌の時だけはお父さんが台所に立つんですよ。
酒のおつまみ、「枝豆」と「スルメ」を作るために。
枝豆の塩加減とか、すっげー上手で。美味かったです。
スルメの上にマヨネーズかけて、七味ゴバーってのせて、辛過ぎで当時の私には食べれなかった(笑)。
でも私は20の時、仕事の都合で家を出てきちゃいました。
一緒に飲んだのも、私が家を出る前日の夜が最後。
お父さん、今年は巨人優勝できるかな?
天国で応援してて下さい。今日は勝ったよ〜!
なんかあんまり料理の話じゃないゴメン
- 70 名前:もぐもぐ名無しさん 投稿日:02/05/20 03:04
- 母が用事で家を空けたとき、父がご飯の用意をしてくれたことがあった。
普段、父が台所に立つことはなかったので、「ご飯作れるのかな」と
小学生だった俺と兄は、見ててちょっと不安だった。
その時作ってくれた料理が何だったか、もうほとんど思い出せなくて、
フライパンの上でぼろぼろになってる卵焼き(ようなモノ)ぐらいしか憶えてない。
味もそれほどおいしくなかった気がする。結局、父が台所に立ったのはその一回きり。
高校卒業して進学のため一人暮らしを始めた。
生活する大変さを知って、今まで文句も言わず家事をこなしてきた母に感謝した。
働き始めて、お金を稼ぐ大変さを知った。父に飯をおごりたいと思った。
実家に帰るたびに、俺は「メシおごるよ。何食いたい?」と聞くんだけど、
父は「いらない、まだお前にはおごってもらいたくない」と断られる。
どうやら、子供に金を出させるわけにはいかないという親の意地があるらしい。
すでに髪も薄くなり背だって俺に負けてるくせに、親の威厳は一向に衰えていない。
その意地に、かなりの悔しさと少しの尊敬。
いつか父を認めさせ、美味い飯をおごる。
それが俺の父を越えた証になるんだと思った。
スレ主旨と違ってて申し訳ナイ。
- 71 名前:もぐもぐ名無しさん 投稿日:02/05/20 09:49
- >70
父親って、男にとっては永遠のハードルなのかもしれんね。
俺も思い出したことがあったので放置してみるテスト。
俺が19の時、仕事の関係で田舎を離れるまで、良く家族で網焼きをしていた。
そういう時、決まって父は一番初めに表に出て火加減をして。
で、団扇で煽って程よく火が起きたら網乗せて食材を焼くわけなのだが。
目分量で塩コショウをバーっとかけるんだ。
時々失敗するんだけど、大抵絶妙な加減なので酒が進む進む。
…田舎を離れた後、そんなことを思い出してしんみりしていたのだが。
- 72 名前:71 投稿日:02/05/20 09:49
- 田舎を出て何年か経ったある日、突然携帯に父から電話が掛かってきた。
「出張で近くまで来ている。仕事の参考にしたい建物があるから案内して
欲しい」という内容だった。
暫く帰郷していなかったので、予定があったけどキャンセルして父と会う
事にした。
場所を聞くとかなり遠く、父の次の予定の時間までには間に合わない。
仕方ないので取りやめて、空いた時間で父と二人酒を酌み交わした。
短い時間の間、ビール中瓶2本と串焼きを少し摘んで、近況報告をした。
当時、俺の勤めていた会社は給料の遅配が当たり前な程経営が怪しくて、
いつ潰れてもおかしくない状態だった。
だけど、心配を掛けたくなかったので「仕事はぼちぼちだよ」って具合に
近況を話していたのだが。
別れ際、父に呼び止められた。
「これから大変だろうから、足しにしろ」
って小遣いを貰った。
会社がやばいなんて一言も言っていないのに…
普段は表に見せない父の優しさと、心配させてしまう自分の不甲斐なさに、
帰った後俺は泣いた。
- 73 名前:72 投稿日:02/05/20 09:50
- 結局その後会社は潰れ、今俺は田舎で職探し中。
週末は時間を作って両親と食卓を囲む事にしている。
もう少し暖かくなったら、網焼きをまたやるだろう。
その時までに仕事を見つけて、両親と旨い酒を飲みたい。
父さん、こんな苦労かけるドラ息子でごめん。
頑張って仕事見つけて、結婚30年にあわせて温泉旅行をプレゼントするよ。
だから、それまで倒れたりしないでな?
…なんだか良くわからん長文で申し訳ないのでsage。
首は吊るわけにいかないので回線切るよ。
- 90 名前:もぐもぐ名無しさん 投稿日:02/06/01 05:50
- 「父が作った」じゃないので、スレ違いかも知れませんが。
母方の祖母が倒れた為、母は田舎へ看病に出かけてしまい、
家に残されたのは義父と私。
小学生の頃から一緒に暮らしてはいるものの、
私は未だに彼を「お父さん」と認めるコトも呼ぶコトも出来ません。
母が田舎に帰った日、私が仕事から帰ってみると、
義父は私に料理を作ってもらえるとは全く思っていなかったらしく、
不揃いに切ったかまぼこと、黄身と白身のしっかり混ざっていない
パサパサした卵焼きをつまみにビールを飲んでいました。
実際作る気のなかった私は申し訳ないような気分になってしまい、
帰って来たそのままの格好でまた買い物に出かけて材料を調達し、
簡単な夕食を作りました。おみそ汁とご飯と炒め物だけの。
母の料理の腕前が天下一品である為、普段は私の出番はなく、
よって私の料理の腕前も全く大したコトはありません。
それでも義父は「美味いよ」と嬉しそうに食べながら、
会話が続かないせいかナイター中継をずっと見ていました。
母が帰って来る迄の一週間程、いろいろ作りましたが、
どう考えても普段食べている母の料理には及ばなかったハズです。
それでも義父は何を食べても「美味いよ」しか言いませんでした。
今はもう結婚して、私は実家から遠く離れた場所に住んでいます。
たまに電話しても、あの時と変わりないぎこちなさで
「元気か?」と「たまには帰っといでよ」しか言わない義父。
血の繋がらない娘を10年以上も養ってくれた義父。
ごめんね、ほんとは「お父さん」って呼んであげたいんだけど。
呼ぼうって思っても、いざ顔を見るとどうしても呼べない。
実の親父よりも、遙かに私を大事にしてくれたのにね。
ごめんね。
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