今日親父の葬式だったんだけど より
- 250 名前:番組の途中ですが名無しです 投稿日:02/07/22 05:56 ID:tbIF0D5f
- 俺は母親が嫌いだ。大嫌いだ。
おせっかいなとこが嫌いだ。何よりも子供を一番に考えるとこが嫌いだ。
大学に入り、一人暮しを始めて二年も経つ俺を赤ちゃんみたいに心配するとこが嫌いだ。
今まで付き合った彼女より誰よりも俺を心配してくるとこが嫌いだ。
金が無くなって「もっと金を送れ!」と、言って結局送ってくるくせに
しぶるとこが嫌いだ。「こんな家に生まれてこなければよかった」と、言うと
電話越しに本気で泣くとこが嫌いだ。
俺は母親が嫌いだ。とにかく嫌いだ。
そんな母親がこの間死んだ。毎日のように俺を心配してかけてくる電話が
ただただウザくて、俺は携帯の電源を切っていた。だから、通夜にも行けなかった。
死因は働き過ぎでの過労と、電話が繋がらない俺を心配して体調を悪くした併発だった。
俺は母親が嫌いだ。自分の給料の倍以上の仕送りをする為に、働き過ぎるとこが嫌いだ。
こんな俺のために死んだ母親が嫌いだ。五十年近くの人生の半分を俺に費やしたとこが嫌いだ。
死ぬ直前まで、俺の声を聞きたがっていたとこが嫌いだ。
俺が毎日2chに入り浸っているとも知らず、死ぬまで働いた母親が嫌いだ。
今日をもって、俺は2chを引退する。嫌いだった母親にしてあげれなかった
親孝行を今更だがしたい。受け止めれない程の愛をくれた母親の為に頑張って生きていきたい。
- 328 名前:328 投稿日:02/07/22 22:59 ID:8O8Ynk6X
- 人には気を使われそうで話さなかったけど、ここで話すチャンスが出来た。
こういうのって一人で抱えてると苦しいんだよね。
俺って、小さい頃に母親が死んだから、ばあちゃん子だった。
非常に俺に甘く、しつけのことでいつも父親と喧嘩してた。
いつも飯作ってくれてたけど、俺は少食だったし好き嫌いも多くて、文句ばっかり言ってた。
それでも他の兄弟よりも俺のことばかり心配し、
わざわざ食事を部屋まで持って来たり、取りに来てくれた。
俺の好きなものばかり作るようになった。
でもそれは俺にとって逆にうざかった。
大学に入って、俺が一人暮らしすると、毎日のように留守電が入ってた。
面倒だからほとんど返事しなかったし、たまに俺が出たときも、
「あー。あー。」てな感じですぐ切ってた。
そしておれの大学入学をきっかけにばあちゃんは急に老け込んで行った。
そして、脳梗塞になり、そのまま施設に入ることに。
兄弟からは「あんたがいなくなってから急にボケがひどくなった。
お見舞いちゃんと行けよ!」てなことを言われた。
言われると逆にいけなくなる、素直じゃない俺。
たまにお見舞い行っても、特に話すことが見当たらない。
本人も今の自分の弱ってる姿をあまり見せたがらないし、
見るたびに痩せて行く姿を俺も見たくなかった。
俺はとっくに就職して、こっちに帰ってきてるのに、
「テストは終わったの?今こっちに帰ってきてるんだね」
と、ばあちゃんの中ではいつまでも大学生のままの俺。
- 329 名前:328 投稿日:02/07/22 23:00 ID:8O8Ynk6X
- 続き
そんなかんじであまりお見舞いも行かなかったけど一昨年のお盆、
施設の中で夏祭りみたいのがるみたいで、電話で誘われたので行ってみた。
そこにはちょっとした縁日みたいで、ヨーヨー釣りとか、輪投げとかあって、
俺が車椅子を押しながら、かき氷食べたり、いろいろ楽しんだ。
「80年以上生きてて初めて食べたわ。」といいながら、
うれしそうにわたがしを食べてたのが今でも目に焼き付いている。
その2週間くらい後、ばあちゃんは死んだ。
ほとんど孝行をしなかった俺だが、最後に思い出を作ってくれたその施設には本当に感謝した。
ばあちゃん心配しないで。今では俺はほとんど好き嫌いはありません。
あー、書いててキーボードが曇って見えないよ・・・。
- 335 名前:328 投稿日:02/07/23 00:01 ID:ThT/WAHU
- 悲しいついでにもう一つ。
俺の母親は4歳の時にガンで死んだ。
といっても、長い期間入院してたし、俺は親戚の所にあずけれてたから
ほとんど思い出が無い。なんか厳しくて、しかられてばかりだったような気がする。
通夜・葬式の時も、兄弟みんな泣いてるのに、俺だけ泣けなかった。
というか逆に、兄貴が泣いてるのに泣かない俺は偉いと思っていた。
今思えば思い出が無かっただけなんだけど。
そんな俺でも母親との思い出が一つだけある。それは母が亡くなる3ヶ月くらい前だったと思う。
時期はよく覚えてないけど、幼いながら内容は鮮明に覚えている。
珍しく母が病院から出てきて、家に帰れることになった。
今思えば死ぬ前に最後の思い出を・・・ってやつだったと思う。
その時は当然そんな事考えもしなかったが。
帰りのバスの中で母が教育テレビの「お母さんといっしょ」を見ようね、と言ってきた。
普段はとても厳しく、テレビは夜の30分以外見てはいけません!
て言ってた母が、自分からテレビを見ようと言ったのは驚いた。
俺もうれしかったが、母もうれしそうだった。
がしかし、その日に限って「お母さんといっしょ」はやってなかった。
多分高校野球だったか、土日だったかでだ。
俺はテレビが見れないのが悔しくて、必死で新聞のテレビ欄を探したけど、やはりやってなかった。
母は「残念だねー。また今度絶対一緒に見ようねー」
と約束してくれたが、その約束は守られることは無かった・・・。
本当に残念だったのは俺じゃなくて母の方だったのか・・・。
今現在、そのくらいの子供を持つようになって、改めて母の無念さがわかった。
母の死で号泣できるようになるまで25年かかったよ。
- 342 名前: 投稿日:02/07/23 00:29 ID:aKYATFKr
- 交通事故で急にいなくなるのもつらいけどな。
少しずつ親が死に近付くのを見るのもついらいもんだ。
俺が小学校4年のときの6月、母親が入院した。
でも、すっとスポーツやってて健康自慢だったし、
最初に俺は胃潰瘍って聞いていて、‥すぐ出てくるもんだと思ってたんだ。
2それがさぁ、2回目の手術乗り越えて、見る見る痩せていった。
だんだん、ベッドから起き上がるのも苦痛になって、
固形物が食えなくなって、物を書くのさえおぼつかなくなった。
もう、さすがに俺にも分かった。これは、治らないって。
2カ月も持たないと言われていたらしい母は、
鍛えた体のおかげで半年以上も頑張って、
とうとう12月の寒い日に、逝った。
ベッドの枕元に、母から俺たち兄弟に宛てた手紙が。
ろくに動かない手で、それでもカタカナだけで書いたひとこと。
「ホントウニ、ゴメンネ」。
思い出すのも辛くて、家でも母のことを話すことはほとんど無かったが、
俺が20歳で家を出てあと、たまに実家に帰ったときに、
親父と酒飲みながら母の話ができるようになった。
- 421 名前:番組の途中ですが名無しです 投稿日:02/07/23 13:06 ID:wWgMjrFK
- オヤジが病死したのは俺が1歳に満たない時だった。
ガンだったそうだ。
それから約20年間、再婚もせずたった一人で家を建て、俺を育て上げてくれた母。
胆石で入院し、後2、3日で退院という深夜1時過ぎ、家の電話が鳴った。
病院からだった。
「すぐに来て下さい」
俺は訳解らず車で3分ほどの病院へ駆け込んだ。
母はいつものベッドで寝ていた。
いつもと違うのは二人の大人が馬乗りになり、汗だくで心臓マッサージをしていた事だ。
「何が起ってるんだ?」
理解するまで何分かかったのだろう。
しかし理解したと同時に自分の口から出てきた言葉は
「もう結構です。ヤメテクダサイ。」
あまりに可愛想で見るに耐えなかった。自分から止めてもらった。
訳解らずそのまま病院を追い出されるような感じで母を連れて家に戻ってきた。
家にはいつものように母と俺の2人だけ。
20数年間続いてきた光景だ。しかし母は深い眠りについたまま。
そのまま朝を迎えた時、母が使っていた目覚し時計が不意に鳴り出した。
昔ながらの手巻きの目覚し時計。
小さい頃いつも一緒に寝ていたので、頭の中にこびりついてる音。
その時計の最後の巻が切れ、ポロンと音が止まった瞬間、涙が止まらなくなった。
あれから早8年、俺は人並みに結婚をし1児の父親になった。
もし出来るのなら1回でいいから母に俺の子供を抱いてほしい。
それが俺に出来る一つの恩返しだと思うから・・・
- 427 名前:番組の途中ですが名無しです 投稿日:02/07/23 16:00 ID:TG3rDE8D
- 俺の父親は自殺だった。
母親からの早朝の電話。ちくしょーなんでだよとつぶやきながら
とるものもとりあえず新幹線に飛び乗った。
なんでだよ、妹は身重でもうすぐ初孫だったじゃねーか、
俺だってやっと嫁さんもらうって話で彼女紹介したばっかじゃねーかよ、
何でそう勝手なんだよ、これからやっと苦労しっぱなしの人生から
楽しい人生になるはずだったんじゃねーのかよ。
葬式では泣かなかった。いろいろやることが多すぎたこともあったけど、
猛烈に勝手に死んじまった父親に対する怒りもあった。
自殺だって知ってるのはごく身内だけで、そのとき身重だった妹は
いまだにその事実を知らない。
寂しいとかんじるより、哀しいとかんじるより、何故父親がそうなったのを
止められなかったかという後悔だけが残る。
もっと沢山話をしておくんだった、話を聞いておけばよかった。
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