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No.206 【感動】ハンカチ無しでは読めないスレ【希望】 より

103 名前:病弱名無しさん 投稿日:02/09/08 15:44 ID:AD5m2LTe
肺ガンで亡くなった母は、医師に自分だけに告知するようにして、家族には病名を
言わないようにと言ってたらしい。
父は「ポリープがある」としか聞いていなかった。
自分ひとり病名を抱えて、退院後もガッツポーズして見せたり運動したり元気だったけど
体は痩せていった。
退院したのにどうしてと思ったのに、なぜかそれを聞くことができなかった。

ある日とても一人で動けなくなったとき、タクシーで病院に行って初めて父が母のレントゲンを
見せてもらった。肺中にたくさんの癌。。。
そして1ヶ月もしないうちに母は亡くなった。
遺品を整理していたら母の日記がでてきた。
家族のこれからの心配ばかり綴った日記。
もっと長生きしていろんなことしたいよ、と涙のあともあった。
健康に人一倍気遣っていたのにどうして自分が?と。
最後のページには「ずっと(自分を抜きにした)家族で
暮らせるといいね,お父さん」と記して終わっていた。
もしも病名を知っていたら、会社を辞めてでも一緒にいたのに。
どうして私は退院したからと安心して会社に行ってしまったんだろう。
一人で苦しんでいたかもしれないのに。
そんな私も結婚して家を離れたけど、週1回父の所へ顔をだす。
父は毎日、自分が食べるものと同じ物を朝と夜、母の仏前へ供えている。

162 名前:病弱名無しさん 投稿日:02/10/21 14:49 ID:Dm4mfici
父が亡くなって2年たちます。
父は凄く弱い人で仕事を転々とし、気の強い祖母と、姑小姑に苛められ胃潰瘍を繰返す母との間に立つことなく、家のごたごたをお酒で紛らわしていました。
長女で生まれた私はそんな父が許せず、真っ向からぶつかった為、虐待を受けていました。
体が飛ぶほど殴られて、母が泣きながら止めに入った事も。
中学まで、何度も自殺を考えました。
そしてアル中〜肝炎〜肝硬変。
肝硬変と腎不全で入退院をくりかえし、私のお腹の中の初孫にあと3ヶ月で会えるというところで、亡くなりました。

お葬式でも、小姑の叔母たちの「ちっとも兄さんらしくなかった」「だらしなかった」との罵詈雑言にさらされ、それに同調する気持ちもあり
号泣って程泣かなかった私。

しばらくたって旦那にネクタイを出している時、父が旦那と初めて会う時に病気の身体でわざわざ銀座の専門店まで出向いて買った品が出てきて、
うずくまって泣いてしまいました。
子どもの頃の優しかった父、どんなに疲れていても遊んでくれた父、そして結婚式のために頑張って一時退院してくれた父…。
虐待の暗い記憶に隠されていた思い出がつぎつぎに浮かんできて…。
もっと優しくしてあげればよかった。
父親は一人しか居ないのだから…。

223 名前:病弱名無しさん 投稿日:02/12/05 09:53 ID:yJN065yg
泣くのオレだけだろうから、前もってお目汚しスマソと言っとく。

オヤジが今年の春に入院し、夏に死んだ。
子供から見ても波乱万丈の人生で、職を転々とし、最後の2年間は大好きな車を仕事にしたい、
ということでタクシーの運ちゃんやってた。おふくろによれば
「あんなに生き生きと働いているのは今まで見たことがなかった」
ということで、きっとタクシー運転手を天職だと思っていたのだろう。

入院して1ヶ月ほどたったゴールデンウイーク、オレは彼女を連れて見舞いにいった。
その彼女を親に会わせるのは初めてだったが、まだオヤジが多少は元気だった頃だったし、
それに今度いつ会わせられるかわからないので、半ば押しかけるように連れていった。
そして、見舞いのあと彼女に地元の観光名所を案内しようという話になったとき、オレがあまり
そういう場所を知らないので本でも買って見ながら行くわ、というと、オヤジはやおら起きあがって、
心配する母親をよそに、チラシの裏に鉛筆で地図を描きはじめた。

さすがタクシー運転手だ。まるで自分の家の間取りを描くかのように、観光名所の場所を鮮明に描いた。
交差点の名前、目印となる建物、一番効率よく見て回る順番、オヤジなりにつけた「面白度」…
すげえ。どんなガイドブックよりもわかりやすい。生まれて初めて、親父を心底尊敬した。
その地図を頼りに彼女を案内しながら、この土地、そしてこのオヤジのもとに生まれてよかった、
と心底思った。そして、「早くよくなって、またタクシーに乗るんだ」という、オヤジの強い思いを感じた。

オレらが帰った直後からオヤジの容態は悪化し、2ヶ月苦しんだ末8月に死んだ。
辛い人生だったろうな、と思う。でもなオヤジ、オレはあんたの子供でほんとによかったと思ってるよ。
そして最後に、あんな些細なことだけど、あんたを尊敬できてよかった。

オヤジの描いた地図。今でもカバンのポケットに入ってるけど、見ると泣きそうなので出せない。
来年には、あんときの彼女の苗字をあんたと同じにして、墓参り行くからな。そんで、またあの地図を
見ながら、観光名所巡りするよ。

長くなってスマンかった。

235 名前:病弱名無しさん 投稿日:02/12/07 00:30 ID:UQbVztDv
まだ俺が研修医だった頃の話・・・

ある1人の父親が入院していた、末期の癌だった。
家族(奥さんと小学生の息子)は毎日見舞いに来ていた。
その父親も自分が癌であることは知っていたが、家族の前では
気丈に、なるべく明るく振舞っていた。
しかし家族が帰った後、「先生、俺は本当は怖いよ・・死にたくないよ・・」
と弱音を吐いていた。
俺は末期の患者は初めてだったので、なんて言って
いいか分からなくて言葉が出なかった・・

全身状態が悪化し、いよいよという時、家族が呼ばれた。
彼は泣きじゃくる息子の頭をなでで
「男の子はめったな事で泣いちゃあだめだぞ、そんなことじゃ
 ママを守れないぞ・・いいか、これからはお前がパパの代わり
 にママを守るんだ・・約束できるか?」と言った
息子は言葉にならない声で「う・・ん・約・・する」
と、頷いていた。
3人はずっと手を握り合っていた・・
父親はその晩亡くなった。
最後まで彼は家族の前では「父親」として「男」として頑張った。

俺もあんなかっこいい男になりたいと思った。

240 名前:病弱名無しさん 投稿日:02/12/08 06:44 ID:4FQ/0RTh
俺は高校生の頃友達がいなかった。欲しかったりもしたがどうすればいいか判らな
かった。だんだんこいつらなんてたいした事ねえよなんて思い出してひねくれてっ
た。

高二の夏チャリ通の途中で車にはねられた。意識が吹っ飛んだ。気がついたら天井
見てた。足と腕を一本ずつぽっきりやっちゃったらしくしばらく入院した。

轢いてきた人が謝ってきた。たいして興味も出なかった。
担任がやってきた。みんな寂しがってるぞとかいっていたがうそだと思った。

しばらくしてクラスの奴がきた。何度か金を貸した奴だが特に仲が言い訳でもない。
来たのが不思議だった。どうしてと聞きいたら、

だって俺らダチやん。あたりまだろ。

不覚にも泣いた。

そいつは俺が何故泣いてるのか判らず、おろおろしていた。その姿を見て笑った。
久々に笑った。


その後俺らは時間を忘れるほど話しまっくった。

251 名前:病弱名無しさん 投稿日:02/12/13 05:43 ID:eLP9t/10
私は右手に障害があります。

兄弟が二人いますが、彼らは生まれたときから
幼児期の写真がたくさんあるのに私の写真はありませんでした。
両親に理由を聞くと、「カメラが壊れていて撮れなかったの。」と言っていました。

物心ついたときから私は自分の障害について認識をはじめ、
他人への劣等感、最終的には自分が生まれてきたことへの恨み、
そして両親への恨みへとつながっていきました。
小学校の頃は両親に「右手は20歳くらいまでには治るかな??」
などと聞いていたりしたのですが、上のようなこともあり、
「何で俺は右手が使えないの?何で俺を生んだの?」
と不躾な、両親からしてみると非常にやりきれない文句をいっていたことを覚えています。

今、私は大学の卒業を控え、両親の私を育ててきた苦悩を
多少なりとも知ることができます。
障害をもって生まれてきた私に衝撃を受けて生後しばらく自暴自棄に
なってしまった母親とそれを立ち直らせるために母親を殴った父親の悲しみ、
写真が少ないのもしばらく私に愛情を注ぐことができなかったから、
そのような背景があるからなんです。

でも、私の記憶にある両親は私にたくさんの愛情を注いでくれました。
幼い頃、寝るときいつも父に右手を握ってもらって寝てたことは忘れません。
「おまえの手が早く治るように。」この父の願いは叶わない事は今ではわかります。
一生付き合っていかなければならない障害ですが、私がこの世に生を受けてきたこと、
両親が頑張って育ててきてくれたこと、絶対恩返しします。

来春から就職。本当に頑張って働いて絶対に親孝行します。
パパ、おかあちゃん、長生きしてください。
乱文失礼しました。




     

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