子供の頃、家が貧乏でトラウマとなった人 パート2 より
- 39 名前:大人の名無しさん 投稿日:01/11/08 20:49 ID:TSIqCgEs
- 幼い頃、親父は家にお金を入れなかった。
手先の器用なお母は、バッグやアクセサリーなど小物を作って、
隣町の繁華街まで行って路上で売ってた。
いつか、俺もいっしょに行った時の事、
目の前で焼いていた鯛焼きが珍しくてずーっと見ていた。
食べたかった訳でもない。鯛焼きを作る作業が面白かったのだ。
母の方は、一つも売れる様子が無く、早めに店を畳んだ。
そして、鯛焼きを一つ買ってくれた。美味しかった。
母にも分けてあげようとしたが、自分はお腹がいっぱいだと言ってた。
帰りの電車賃は無く、夕暮れの中、数キロの道を歩いて帰った。
片手で母と手を繋ぎ、片手で鯛焼きをほおばりながら。
歩きながら母は歌を歌ってくれた。「砂山」という歌だったと思う。
楽しくて幸せな帰り道だった。
小学生の時、両親は離婚した。そして、母は、早朝から夜中まで365日働きつづけた。
俺と妹を育てるために。俺を大学にまで行かせてくれた。
そんな母が先日亡くなった。過労死だ。
親孝行など何一つしていない。
孝行したい時には親は無し、などとは言うが・・・
鯛焼き屋の前を通っただけで涙が込み上げる。
- 77 名前:ビスコ 投稿日:01/11/13 22:29 ID:Ac9Mu800
- その日は粗末な台所の水道も凍りそうな夕方だった。
いつもは布団で寝ているはずのおとうさんがいない。
かわりに普段食べたことがないほどのお菓子が置いてあった。
ランドセルを放り投げて夢中で食べた。
うれしかった。 勿体ないので半分は取っておいた。
玄関を蹴るような音がするので恐る恐る出てみるとおじさんが
立っていた。「おやじはいねえのかっ!」
何も言えない。 恐かった。
食べていたお菓子を一瞥したおじさんは私を睨み付け
「おめえ、いい思いをしたな。」
と一言だけ言って帰っていった。
夜になって仕事から帰って来たおかあさんは半分残ったお菓子を
見て黙っていた。
その日、おとうさんは帰らなかった。次の日もずっと。
おじさんは日掛け金融屋さんだった。 おとうさんは死んだ。
わたしが子供にお菓子を与えないのはこのせいだ。
わたしはお菓子が好きになれない。
- 89 名前:1960年生 投稿日:01/11/14 19:33 ID:peMkYLB9
- 俺が小学生の頃のある日曜日の朝、オヤジが自転車を買ってやるといって、
路地を抜けたところに止まっていた軽四トラックのおっさんから
オヤジが板垣退助(五百円)出して自転車を買ったことがあった。
おっさんが荷台から自転車をおろしたシーンを鮮明に覚えている。
今にして思えばえげつないほどボロだった記憶があるが、
俺は狂喜乱舞して乗り回したなぁ。
差込み鍵がひん曲がっていたから、止めるときはそいつを元に戻す。(w
当然、何度かお巡りさんに職務質問されて交番へ連れて逝かれたよ。(w
で、どこかへ電話しているんだけど、その先の記憶はもうない。
いわゆる盗難照会とかいうやつだったんだろうなー。
10年ほど前まで現役で頑張っていた自転車。
アイツをどうしてしまったのかなぁ。
- 146 名前:カミングアウト 投稿日:01/11/21 11:55 ID:wIgmpwsn
- 長文スンマソン
父は、典型的な酒乱だった。母は、毎日父の暴力に絶えていた。
また、サラ金に手を出し、とうとう会社の金にまで手を付けてしまった。
これが原因で、僕が中2の時に両親は離婚した。
そして中2の2学期から、僕の名字が変わった。
当然、クラスメイトは不思議に思う。「いやぁ、俺って有名人だから芸名つけたんよ」
と、ジョークで誤魔化していたけれど、かなり傷ついていたことを今でも忘れない。
当時、「PTA名簿」というのがあって、各生徒の住所と電話番号そして、保護者名の欄があった。
みんな父親の名前だったが、僕の欄だけ母親の名前「○○子」だった。
明らかに「母子家庭」というのが、中学生でも分かることが辛かった。
- 147 名前:カミングアウト 投稿日:01/11/21 11:56 ID:wIgmpwsn
- つづき
母は、昼間は近所の喫茶店、夜はスナックで働いていた。
さらに、保険の外交員や化粧品販売と年中働いて、僕と弟を養っていた。
ある日、母が働いている喫茶店の前を通った時、入り口に「バイト募集:時給500円」
という張り紙を見つけてしまった。
僕は、母が時給500円で働いている事にショックを受けた。
当時、ほしいLPがあったが、定価が2500円。
母が、5時間働かなければ買えないと思うと、我慢するしかなかった。
弟が喧嘩をして、相手の歯を折る事件があった。どうやら、片親であることを馬鹿にされたらしい。
相手の親から治療代として12万円程度の請求があった。
母は泣いて、弟を叱った。僕は「12万円=240時間」という計算をしていた。
そのころから、物の値段を「円」ではなく「母の働く時間」で見るようになってしまった。
- 148 名前:カミングアウト 投稿日:01/11/21 11:57 ID:wIgmpwsn
- さらにつづき
幸いグレることはなかった。道を外そうとすると、母の涙が脳裏に浮かんだからだと思う。
高校は公立だったし、奨学金を貰っていたから、母への負担はそれほどなかった。
問題は、その後の進路だった。普通科でクラスメイトの大半が大学進学を志望していた。
しかし僕の場合、家庭の経済状態を考えれば、就職を選択することが妥当だろう。
しかし母は、大学への進学を僕に強く勧めた。離婚してから僕らを養うために「学歴」がどれほど
重要であったかを懸命に語ってくれた。
そして母がこう語った。
「あんたが大学に行ってくれたら、私は飲み屋を持つ予定だ。そうしたら、当面手伝ってもらいたい。」
最初は驚いたが、母の夢を叶えられるなら協力しようと思った。そして僕は、大学へ進学した。
日中は講義。午後6時から8時までは、家庭教師と塾の講師を掛け持ち、9時から母の手伝いをした。
授業料は、育英会と自治体の奨学金+バイト料で稼いだ。
当時、塾の講師の時給が1500円だった。大学生という肩書きを有り難く感じた。
多感な時期に、両親が離婚して経済的にも苦しかったし、コンプレックスもかなりあった。
でも、「不幸」と感じることはなかった。母の御陰だ。
あれから、十数年が経った。僕は仕事の都合で遠方で働いている。
年に1度、孫の顔を見せることだけが親孝行になってしまっている。同居ができないことが、少々残念だ。
再来年に母は還暦を迎える。感謝の気持ちを込めた贈り物を考える毎日である。
- 211 名前:大人の名無しさん 投稿日:01/12/02 17:16 ID:nVtBs3wv
- 小学生の時、サンタクロースをまだ信じていてクリスマスに世界文学全集を
お願いした。結果はオルゴール一つだけ。両親は、サンタクロースの荷物が多すぎた
からだと言い訳していた。でも翌年、世界文学全集が届いた。
お金がなかったから、一年かけて貯金していたみたい。
大人になっても読んでいるよ。お父さんお母さんありがとう。私の宝物です。
ありがとう。
- 214 名前:大人の名無しさん 投稿日:01/12/02 22:13 ID:gNz5LifU
- 貧乏ではなかったが、父親が浪費家で
いつも母親とけんかしては母親を殴っていた。
私はお金をものすごく意識した金をぜんぜん使えない大人になった。
今でも最低の生活しかできない。お金を使うことができない。
最初に就職したときに手取りで7万5千円。ボーナス含め100万の貯金をができた。
26歳のときには1000万円近い貯金があった。
会社の飲み会も旅行も一切参加しなかった。
昼飯はパン一個で、夜もバイトの生活をした。
中学時代に家出した母親が体を壊し一緒に生活するようになって
初めて風呂付アパートに住んだ。
母親は趣味で株をやっていて「ちょっと貸して」を繰り返すうちに
私の貯金はなくなった。
それについてはなんとも感じない。私はお金をためるのが趣味ではなく
お金がつかえない人間なのだ。
- 222 名前:大人の名無しさん 投稿日:01/12/03 12:33 ID:RfPoZUUf
- 僕のためにいっぱい苦労をして、自分のためには何も買わず、子供の物ばかりを買って、
楽しい事は何にもせずに、去年、母は白血病で亡くなりました。
母のために一生懸命勉強して、そこそこちゃんとした仕事して、今年、親孝行のために一緒に台湾旅行しようとして、
パスポートとったのに。とうとういけなくなりました。
貧乏ではあったけど、まわりにはちょっとはずかしかったけど、とても、楽しい生活でした。
35歳ですが、書き込みながら、泣けて泣けてしょうがない。
貧乏じゃなかったら、もっと母にも余裕のある態度を見せられたのにと思うと、
憂鬱でしょうがない。
もっといっぱいいろんなことをしてあげたかったです。
- 246 名前:大人の名無しさん 投稿日:01/12/17 20:39 ID:v9z7kUe/
- 子供の時、お年玉は一年で6000円集まれば良い方だった。
小学校2年生くらいの時、そのお金を3年分くらい貯金して
合計13000円にしたと思ったのだけど、ある日、通帳を
見たら残高が100円になっていた。おかんが引き落とした
らしかった。
俺が泣いて抗議すると、おかんは「ごめんやで」と悲しそうに
言った。この時、父の勤めていた会社は倒産したらしかった。
(この事情は中学生くらいになってから知った。ご近所さん
からも少しづつ借りていたらしい。)
今考えれば、子供の通帳を郵便局に持って行ったおかんの
方がつらかったんやろな、と思う。
「なんで、俺のお金、降ろしたん!」と子供に詰め寄られて
悲しかったと思う。
俺の方こそ、ごめんやで、おかん。
- 285 名前:15年くらい前のはなし。 投稿日:01/12/21 13:06 ID:s5DRIKWQ
- 父は最上級に甘やかされて育ったバカ息子だった。
祖母=父の母 が女手ひとつで店を切り盛りして大事に大事に育てたそうだ。
自分が育った家も、祖母が結婚と同じに建ててくれたもの。車も祖母が買ってくれた高級車。
しかし、父はホントに甘ちゃんで商才がなく責任感もない男だった。
あやしげな商売を始めては潰し、また性懲りも無く・・・を繰返していた。
小さい頃はそんな事情もしらず、ウチはお金持ちなんだ と思いこんでいた。
何故か父は非常に羽振りが良く、新しい家電製品や、高級車を買うのが大好きだったから。
そして「お金のことを口にするのは、貧しくて卑しいことだ」と言われて育ったので
父親が「給料」というものをもらっていない人なんだ ということも、中学生になるまで
知らなかった。
影で家計を支えていた母が死んでから程なく、家は競売に掛けられた。
めぼしいものには、付箋のような紙が貼られた。母の思出のピアノにも付箋が貼ってあった。
逃げ出すように隣町の借家に移った。それでもまだ、貧乏じゃない と思ってた。
それから半年。深夜、父に「大事な話がある」と起された。
893者に金を借りてしまって、もうどうしようもなくなった。
明後日までに3000万円返せと言われている。
返せないなら組に入れ と言われているが、そんなわけにはいかない。
今晩中に荷物をまとめて、みんなで明日の夜家を出る と父がいう。
・・・ただ、うなずくしかなかった。
友達にも引っ越すことを言ってはいけない といわれたけれど恋人だけには、もう会えない と電話で伝えた。
小さな花束を持って見送りに来てくれた。
父親と妹、自分と祖母の2手に分かれて移動。何度も電車や車を乗り継いだ。
絵に描いたような「夜逃げ」。祖母は常に周りをキョロキョロと見回し
後に付いた車のナンバーをチェックしては
「あれは怪しくないかい?見つかってないかい?」と何度も自分に聞いていた。
見知らぬ土地に越してからも、父は儲かりもしない商売で何度も失敗を繰返し
そして病死した。
危篤の報を受けて病院に行ったときは既に息がなかった。
全然悲しくなかった。
昨年結婚したけれど、このことは相手には言ってない。
お金のことを口にするのは今でもとても苦手。金銭感覚が非常にアバウトだと思う。
貯金も苦手。見かけの豊さ=見栄 にお金をかける癖が治らない。
お金にこだわると、自分が凄く卑しく見える と心のどこかで思っているからか・・。
未だに父の言霊から解放されないことが、悔しくてたまらない。
- 317 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/01/07 22:01 ID:7C4cclMO
- 身体検査がイヤだった。
自分の子と徹底的に漏れを差別してた継母は、
世間体を気にして、上着だけはそこそこのものを着せたが、
下着は親父が死んでから6年間、買ってもらったことがない。
ボロボロで変色しまくり。
高校の時初めてバイトして得た金で買ったのがパンツだった。
温泉のフルチンは平気でも、脱衣場で着替えを見られるのは
今でも抵抗がある。
- 320 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/01/10 04:59 ID:A9+23e4O
- 子供の頃、我が家には金がなかった。
晩御飯はキャベツを丸ごと煮ただけ(一品)なんてこともある。
そんなある日、夕食時にソースがなかった。
そこで母は私をにソースを買ってくるように言った。
でも金がないんですね。母はタンスの引き出しとか押入れの棚まで探してたけど
結局なかったんです。
さいわい行きつけの店がありツケで買うことが出来たんだけど店の人にお金が
ないって事言いにくくて「お母さんからお金預かってくるの忘れた」みたいな
嘘をついた覚えがあります。
ソース抱えて半泣きになりながら家まで走って帰ったな。
今は一人暮らしで決して貧乏ってわけでもないけど、ソース買うたびに胸がキュッと
なります。結婚して子供が出来たら家族にソースで辛い思いはさせたくない。
- 323 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/01/14 01:08 ID:YYTZ5jcJ
- 結婚しようと思うのですが、実家が貧乏なので彼氏を連れていきたく
ない。
いい思い出が何もない貧乏な町、喫煙者の両親、小さなアパート。
もう何年も用事のある時以外戻ってないし、戻りたくもない。
こんな事書くと罵倒レスがつくかもしれないが、自分を含めて全員が
不快な思いをするのなら、連れてかないほうがいいと思ったりする。
- 354 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/01/16 13:31 ID:ieDcTDXW
- >>323
結婚前、おれの実家が絶句するほどのボロ団地でおまけに線路際。
窓を閉めていても電車が通ると話し声が聞こえなくなる。おまけに揺れる。
でも、今の女房と結婚を決意したとき、恥ずかしかったけどそこに連れて行ったよ。
さすがに女房の両親は実家に呼べなかったけど。そこは女房がうまく話してくれた。
あのころのことは今でも思い出すとイヤな冷や汗がでる。
結婚して14年。大変なことや苦しい時期もあったけれど女房はよくやってくれた。
おれのコンプレックスでありネガティブな部分を見て、なお結婚してくれた女房だから
こそ一緒にやってこれたのだと思う。
結局、まわりの環境に惑わされずにおれを評価してくれたのが今の女房だった。
そして昨年、コンプレックスであった家も建てることができた。これは内助の功が大きい。
また、団地暮らしのおれの親も多額の援助をしてくれた。自分達のことを差し置いて援
助してくれた親が本当に有り難かった。その後おれの親も小奇麗なマンションを買って
隠居している。
また、女房には女房の両親自慢の美人の姉がいて、その旦那はいわゆる"良家の子息"
で大手企業に勤めていた。
女房の両親は結婚したころはよくその義姉夫婦とおれたちを比較していたようだ。
当然、こちらは馬の骨のように思われていたようだ。
ところが14年経ってみたら、義姉の旦那は浮気はするは家に金は入れないはで
心労から義姉は病気になるし、義兄の実家も両親揃って大病ですっかり傾いて
しまった。当然そんな状況だから義姉夫婦は今も県住暮らし。
一方こちらはまがりなりにも一家を構えて夫婦円満。女房の母が大病で手術した
ときには保証人になったり世話したりと全面的に支えた。
今ではうちが頼りになっている。
自慢めいた話になって申し訳ない。
今は出発点にしか過ぎない到着点ではない。
現状を否定したら自分のスタートラインがなくなってしまう。
自分を隠し立てせずにありのままの自分を見せて、それでもなお結婚しよう
と思う男があなたの真の良人でしょう。
それに結婚はいっときのものではないから、隠したところでいつかはわかっ
てしまう。
貧乏というフィルターで本当の良人を濾す(発見する)つもりでいたらどうだろう?
万事塞翁が馬ということわざもあるとおり。
- 428 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/02/05 16:46 ID:cR/xY5/A
- 私は薄暗い部屋の中が嫌いだ。
6畳一間のボロアパートで留守番していた子供の頃を思い出すから。
夕方には帰ってくるはずの母親が夜になっても帰ってこない。
電球に手が届かないから暗くなっても明かりをつけることができない。
テレビ(白黒)をつけて照明代わりにするが、怖さは紛れない。
いつのまにかテレビの傍で泣き寝入りしていたらしい。
人気に気づいて起きてみると、私を見て母は泣いていた。
ホッとしたらずっと何も食べていないことに気が付いた。
お腹が減り過ぎて胃が痛い。
そのとき何を食べたか記憶にないが、電熱器しかない簡易台所では
たいしたものは食べていなかっただろう。
6歳の頃の記憶。
現在。
新築した家のリビングの照明は30Wのパルック10本使い。
白色電球換算1キロワットの明るさだ。それとは別にダウンライトもある。
全部点燈するとまばゆいばかりの明るさだ。光のシャワーの中でソファーに
横になってみる。目をつぶっていても明かりを感じることができる。
そんなときは気分がいい。
家内にはそれほどまでに照明にこだわることが理解できないようだ。
それと表札へのこだわり。
酷い惨めな生活を子供のころに味わっていない限り、話しても理解不能
だろう。だから理由を聞かれても曖昧に笑ってやり過ごしている。
今更話したくもないし。
子供たちがある程度大きくなったときには話してみようかと迷っている。
- 430 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/02/09 23:44 ID:TvfgSCEW
- 子供の時、仲良しだった友達はお医者さんの一人息子。
遊びに行くと、いつも優しくて綺麗なお母さんが家で食べたことも
ないようなおやつを持って来てくれた。
医者になれば、こんないい生活ができると子供心に焼きつき、
十数年後地元の公立医科大学に入学した。
卒業後、母校の内科教室に入局したら、バカ私立医大を卒業した
かつての友人も一緒に入局していた。
9年ぶりのあいつはすっかり人が変わっていて少し悲しかった。
医局の有力者の後継ぎということで、人事、学位、留学といろんな
面で優遇されていた。その後をいつも私がついて行かされた。
時には尻拭いをさせられた。
それから十年、友人は些細なことで教授と喧嘩になり、医局を
辞めた。入局を奔走してくれた親父さんとも喧嘩して、結局
自分で資金を調達して開業した。
今年の正月、あいつから年賀状がきた。
「開業してから五年目で、やっと従業員を新年会に招待できる
位には経営も安定してきました。よかったら参加してください。」
デパートの地下でケーキを買って参加した。
教室の秘書だったあいつの奥さんはすっかり老け込んでしまっていた。
「主人とは小学校から仲良くしてしていただいたそうで、いつも
「あいつは猛烈に頭がいいから悔しい」ってもう・・。」
そういって手作りの料理をふるまってくれた。
どこかあいつの母親に似ていた。
四十男が二十数年を経てまた友人になれた。
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