No.302 一生忘れられない、あの駅&あの列車 Prt3 より
- 184 :名無し野電車区 :03/12/09 00:08 ID:RvxFbtKB
- 7年ほど前に友人が交通事故で亡くなって、諏訪のほうまで行った。
学校の先生になるのが夢で、教員免許も取って、これからって時に。
信じられなくて、友人と駆けつけたら、布団の上に寝かせてあった。
交通事故だっていうのに、その顔は本当に綺麗で……
お通夜は出席したけど、翌日の告別式には用事があってどうしても出られなかった。
だから、お通夜の後、夜行列車に乗るために駅に戻った。
友人の妹が、確か送ってくれたんだと思う。
無人駅で、自分ひとりだけだった。
電気がぽつんと点いたプラットフォームで、泣きとおした。
真っ暗だったから、線路に何度も叫んだ。
乗った夜行も、時期はずれで殆ど人がいなくって。
その春会った時に話したこと。
その時に偶然入った土産物屋の木綿で出来た花を机の上に飾ってあったこと。
そんなことを思い出しているうちに、いつのまにか夜が明けた。
東京に着いたら、もう始発の山の手線が動いていたことを憶えている。
駅の名前も、乗った列車の名前も忘れたけど。
あの駅のたった一つ点った電灯のたよりない明るさと、闇の中の深い緑の色が忘れられない。
- 198 :涼子 :03/12/19 17:17 ID:6sGbCL42
- 私は、小学校6年間、いじめに遭ってました。体が弱く休みがちだったせいも
あり、それにより勉強が人より遅れがちだったので、内向的な性格の私は、
かっこうのターゲットになっていました。なかなか友人もできず、休み時間は
いつも一人で屋上に行って時間を潰していました。
学校帰りはいつもクラスの子達に追いかけられていたので、親の心配は
相当な物だったと思います。
ちょうど私が6年生の夏、親の事情で東京へ転校することになったんです。
担任の先生から、私の転校の発表があった時、クラスはなぜか静まり返ってました。
その時、私は「どうせ私なんかいなくなっても皆には関係ないんだ、私がいなく
なったら、かえって皆は、せいせいするんだろうな」と思ってました。
ところが、引越しをする日曜日の当日、最寄駅から家族3人で駅に入ろうとした途端、
思わず、目を疑いたくなるような光景が、飛び込んできたのです。
クラスのほとんどの子達が担任の先生と一緒に、駅のキップ売り場に立って
おりました。 私を待っていたのです。とても驚きましたが、うちの両親はその事情を
すべて知っているようでした。
今まで私をいじめた子達が先生と相談の上、みんなで謝ろうということでした。
うちの親にも事情を説明し、時間を合わせてみんなが駅まで来てくれていたの
でした。 クラスの子達はそれぞれ口々に「今まで本当にごめんね。許してね」
と言ってくれたのが、私にとってはものすごく嬉しく、涙でみんなの顔が見えない
ほどでした。
あれから11年、私は、来月結婚します。彼にその話をしたら「今度、その駅に
行ってみようよ」と言ってくれました。あれ以来、遠距離という理由から、一度も
その町には足を踏み入れてませんでしたが、是非、思い出の駅に今度是非、
行ってみたいと思っています。
つらい思い出が、最後には温かい思い出に変わった場所なので、あの駅をみて
おくことで、人への優しさの大切さを再度、認識できるのではと思っています。
- 210 :CHIPO CHIPO :03/12/28 07:24 ID:BX/Y2yYo
- 200系新幹線電車。
僕が幼稚園の頃の事だ。
まだ東北新幹線も上越新幹線も建設中で、一部区間を試験車両だけが走ってた時代。
僕は、山陽新幹線の沿線に住んでいて、毎日のように白に青いラインの丸鼻の新幹線を見て育った。
そんな時に、母親と本屋に逝った時の事。一冊の電車の絵本を見てショックを受けた。
「みどりいろのしんかんせんがある!!」
今までとは違う新幹線電車は、自分には、かなり衝撃的だったのだろう。
次の日のお絵かきの時間、たまたま「しんかんせん」の絵を描こう、という事になり、
僕は早速、昨日絵本で見た「みどりいろのしんかんせん」を描いた。
うまく描いたはずなのに、同じクラスの園児みんなが、僕の絵を笑った。
「ほんとうにあるんだよ!みらいのしんかんせんだよ!」半ベソかきながら反論する僕を、
先生だけがなだめてくれた。それでも、半信半疑な顔だったが。
それから次の週、園児みんなで新幹線の駅に逝った。各自、先日描いた絵を持って。
いろいろ見学をして、先生が「それじゃぁ、駅長さんに質問ある人〜!」と言うや、
僕は真っ先に手を挙げて、立って絵を見せながら質問した。
「みどりいろのしんかんせんは、いつからはしるの?」
ドッと笑いが起こった。今度はクラスの子だけじゃなくて、園児全員だ。
駅長氏は、僕の絵を手にとって見ながら、ほほぉ〜と感心した表情を見せ、
この電車は、皆さんがもう少しお兄さんお姉さんになった時に、東京から北のほう、
冬には雪がたくさん降る盛岡や仙台、新潟へ走ります。できたときには、ちょっと
遠いけど皆さんもぜひ、乗りに行ってくださいね!と答えてくれた。
どよめきが起こった。どうだ!本当にあるって言ってくれたぞ!僕は、誇らしかった。
あれから、そのみどりいろのしんかんせんも、リニューアルして活躍を続けるものもあれば、
新型車両に使命を託し、解体されていくものもある。
こうした光景を見ると、あの日からかなりの年月が経ってしまったんだなぁ、と感じる。
あの日に描いた絵も、当然手元にはない(引越の時に棄てたのだろう)。でも、
200系との「衝撃的な出会い」の瞬間は、永遠だ。
- 221 :名無し野電車区 :04/01/02 02:00 ID:xvQMt8Kk
- つい3週間前まで付き合ってた彼氏の地元の駅。
私の住んでるとこに比べて田舎で、
電車は1時間に1本だった。
片道320円。
毎日駅の近くの細い道に、自転車で
煙草を吸いながら私のことを迎えに来てくれた。
電話で別れを告げられたから、
最後に彼氏の家に行った時は
その日が最後だなんて思っていなかった。
その日の帰りの電車、
電車に乗り遅れてしまった。
次の電車は1時間後。
彼は1時間ずーっと駅で一緒に待ってくれた。
別れた今は、もうその駅に行くことは
2度とないと思う。
もう1度だけ行きたかったな。
- 234 :名無し野電車区 :04/01/10 16:22 ID:pplxGLFO
- 最後の小学校生活の修学旅行で乗った新前橋のモントレー色165系。
晩秋の香りが漂い始めていた10月後半。日光への修学旅行へ向かうため、
横浜駅にたどり着いた小学生たちを出迎えた列車は、すでにベテランの域に
達していた新前橋区モントレー色165系。
列車に乗り込んだ俺は思春期をまえに、好きな女の子の近くに近づこうと、
さまざまな策を施すも、かなわず。列車は無常にもゆっくりと、しかし確実に
目的地へたどり着こうとする。焦りと反比例し、ゆっくり走る列車は速度を
あげていった。
風景は住宅街からビルへ、そして再び住宅街へ。時の流れが下るにつれ、今度は自然の風景が多くなってきた。
風景は変わっても、俺の心にある思いは変わらなかった。
それから約10年。好きな女の子の思い出と共に、165系は黄昏のかなたへ消え行った.....。
- 193 :名無し野電車区 :03/12/14 23:05 ID:9zaAB+YM
- 小学校2年の頃、親父の転勤で江差から引っ越した。「美利河」というエライ山奥で、そこの小中学校(同じ校舎)には72人の児童生徒がいた。
そう、瀬棚線だ。当時は普通にC11が走っていた。しかし一番見なれていたのは国鉄カラーの汽車、確かキハ21って書いてあったっけ?キハ12だったような気もするが。
美利河には店が一軒しかなかった。まだ砂利道だった国道の脇にその店があり、そこを通り過ぎて坂を上っていくと美利河駅がある。汽車に乗らないと買いものに行けない。
いろんなことがあったんだけど、住人が少なすぎて、書くと誰のなんのことかわかるので、書けない(笑)。もしこれを読んでいる奴がいたら、オレが誰かすぐにわかるだろうな。
当時オレは乗り物に弱く、函館の山奥と、瀬棚に両親の実家のあるオレにとっては、汽車強敵だった。
そう、盆と暮れの「急行せたな」。普段は1?2両しか来ないくせに、えらそうに3両でくるヤツだ。夏は窓をあけていいからまだいい。冬はおでこを窓にくっつてけていないと、気分が持たなかった。駒ヶ岳の見掛けの位置があっちこっちに動くのが唯一の楽しみだった。
オレは中学を卒業するとき、全校児童生徒は38人になっていた。でも、校歌を歌う声は管内1でかいことで有名だった。やがて、その小さな集落はダムに沈んだ。美利河駅は廃止前に雪でつぶれ、瀬棚線はなくなり、当然急行せたなもなくなり、親父も亡くなった。
山の緑をすれすれに走っていったあの汽車。あのリズム。あの時代のことをオレは死ぬまで忘れない。
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