思い出してホローリくる家族との思い出Part2 より
- 491 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/05/11 23:56 ID:???
- 私の祖父はとにかく家族を愛して止まない人だった。
学はないけど、がむしゃらに働いて一代で会社をたてて
自慢の祖父だった。
しかし、私が小学三年生の頃、肺がんで寝たきりになってから
祖父は痴呆になってしまった。大好きだった祖父の面影は無く、
惨めで怖くてそんな祖父を見るのが嫌でだんだんお見舞いにも
行かなくなった。その時には私の名前さえ忘れていたのだから・・・
そんなある日、祖父が危篤との連絡があり祖父の下に一族が集まった。
でも皆現実を受け入れたくなくてテレビを見たり、悲壮な感じはなかった。
私も雑誌を見て母の誕生日プレゼントを吟味していた。その結果淡水パールの
ネックレスが良いという結論に達し、喜んでもらおうと祖父の枕元にいる母に
報告した。するともう何も分からないはずの祖父が
「亜紀、いくらいるんだい?お母さんに贈ってやりなさい」
それが祖父の最後の言葉だった・・・
すがり付いて泣く母等を私は呆然と眺めていた。涙も出なかった・・
何でもっとお見舞いに行かなかったの、どうして一瞬でも鬱陶しい
と思ったのだろうと今でも後悔しています。皆さん大切な人が
生きている間に精一杯想いを伝えてあげて下さい。
長文スマソ
- 492 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/05/12 04:35 ID:???
- まるで昼寝でもしているようにしか見えなかった。
でも、血の気の失せた弟の顔は、朝見た時とは明らかに違っていた。
先天性の心臓疾患だった。弟は生まれてきてから半年も経っていない、あまりに早すぎる別れだった。
体を覆うようなたくさんの花に囲まれた弟の胸元に、僕は二つの紙飛行機を置いてやった。
一つには僕の名前を、もう一つには弟の名前を書いた。
死ぬということがどういうことなのかいまいち理解できなかった僕にも、それが永遠の別れであることはなぜか本能的に分かった。
でも、僕達は、遠く離れていても兄弟だから。
二度と会えなくても、この世で二人の兄弟だから。
僕は、その飛行機に幼い願いを込めた。
僕達の絆が離れませんように。
弟と同じ遺伝子を継いでいる僕に心臓病の疑いがかけられたのは、いつのことだったろうか。
弟との絆は、あまりに色濃く僕の体に焼き付いていた。
いつの日か、僕も、もしかすると弟と同じようにして二度と覚めない眠りについてしまうのかも知れない。
幼い日の願いはあまりに残酷に、僕の人生を蝕んでいる。
でも。
僕はもう一人の自分の死を幼い頃に見ている分、死に対して落ち着いた考えを持てたような気がする。
決して怖くはない。
一度しかない人生、どこまで行くことができるかは分からないけれど。
僕は精一杯、生きようと思う。
生きて生きて生き抜いて、いつの日か眠りについたなら、
紙飛行機に乗って、弟に会いに行こう。
- 503 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/05/13 15:00 ID:FRpFEUpw
- 父はクリスマスが嫌いだった。
子供の頃から「サンタはいない」と教えられていた。
誕生日プレゼントは買ってくれても、クリスマスはケーキ止まり。
かといって熱心な仏教徒でもなかった。仏壇で手を合わせる姿など見た事も無い。
子供の頃、それが不思議でたまらなかった。
高校生の時、祖母が亡くなり過去帳を見てわかった。
父は思春期に実父(私の祖父)を亡くしていた。
私の祖父の命日は、クリスマスだった。
母子家庭になった後、一家の家計を支えたのはまだ若い父だった。
そしてやっと自分の家を築いた。
クリスマスなんて祝える気分じゃなかったんだ、毎年。
でも多くを語らない人なので何にも知らなかったよ。
お父さん、ごめんね。
- 505 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/05/13 17:30 ID:???
- 里帰り出産をして、出産後もしばらく実家にいた。
4月なのに初夏を思わせるような天気だった日のこと。
母方の祖父が、娘(祖父にとっては曾孫)の顔を見に来た。
春にしては少しまぶしい日差しの中、祖父は縁側にあぐらをかいて座り、
娘を抱っこしてくれた。
娘はすやすやと眠っていた。
せっかく祖父が来てくれたので、娘が起きた顔も見て欲しくて、
私は眠る娘の頬をつついて「起きて〜」と言ってみるが、娘は起きない。
「せっかく来てくれたのに、寝ててごめんね。」と祖父に言った。
もともと無口な祖父は、何も言わずに、
娘を抱っこしがら、娘の顔を覗き込むように眺め、満足そうに微笑んでいた。
…と、そこで私は目が覚めた。隣では娘が眠っていた。
祖父が遊びに来たのは夢だったのだ。
寝ぼけた頭で良く考えて、祖父は6年前に亡くなっていたのだと気付いた。
亡くなっていた事を忘れるくらい鮮明な夢だった。
夢だったけど、祖父は本当に嬉しそうだった。
夢だったけど、祖父に喜んでもらえて嬉しかった。
夢を通じて、娘を見に来てくれたのだと思いたい。
里帰り出産を終え旦那の元へ帰る日の前日、母の実家の祖父の仏壇へお参りにいった。
「また遊びに来るからね。そしたらまた娘を見に来てね。」と願いながら手を合わせた。
思い出とは違うのでsage
- 514 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/05/16 18:17 ID:OvAWyEDw
- 今から10年程前ちょっとした言葉の食い違いから両親と4年間連絡を絶っていた時期があった。
その当時は、あんな親なんかいなくても自分ひとりで生きていくつもりでいた。
しかし、自分も年齢を重ね社会にでていろいろなことを学ぶうちに、いつまでこんなことを
続けるのか?という気持ちが生まれ始めてきた。
しかし、親に大見栄を切った手前、自分から連絡することが出来ずにいた。
そんなある日、父から手紙が届いた。
「もう充分だろう。一度帰って来い」と…。
父は、私の居場所を知っていたのだ。
知っているのに知らないふりをして見守っていてくれたのだ。
そんなことも知らずに、一人いきがっていた私。なんて子供だったのだろう。
家の中では気の強い母の尻に敷かれていた父。
しかし、私と母がどんなに衝突しても私の味方についてくれた。
そのとき、今までのことを素直に謝れる気がした。実家に帰る決心がついた。
懐かしい玄関の前に立ち、チャイムを鳴らすとあの頃よりもちょっと老け込んだ母と、
大きくなった弟が、あの頃のように出迎えてくれた。四年前の空気が変わらずそこにはあった。
そして、何気なく玄関を見渡し、私は動けなくなってしまった。
そこに飾ってあったのは、私が高校生のときに授業で作った七宝焼きの皿だった。
上を見上げると、私の作った壁掛け時計もある。…四年前と変わらずに。
母は、こんな私の作ったものを変わらずに飾っていてくれたのか。
それを見て何を思っていたのか。
私はといえば、実家に関するものはすべてしまい込み、それについて考えないように、
いや、あえて嫌いになろうとし続けてきた。私は何をしていたのか…。
涙をこらえて、こう言うのが精一杯だった。
「ただいま…」
涙で曇って顔は見えなかったが、お帰りと明るく言う母の声は何も変わるところはなかった。
あの頃のことの反省の意味もこめて・・・。
- 515 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/05/16 21:40 ID:Ms8H8rY2
- 今、俺は入院している。
11月からだからもう半年。
少し長くなるが今までの事を書きたいと思います。
俺は今年二十歳で高校卒業後、上京し専門学校に行っていた。
高校時代はあまり家にもいない学校も嫌いな、世間一般で言う不良のようなものだった。
家族の仲はそれなりに良かったが母親とは喧嘩ばかり。
上京してからも1ヶ月に一度連絡をするくらいでろくに親の事なんか考えてなかった。
初めての夏を迎える頃右足の付け根に痛みを感じ出した。
医者に行くと「股関節の炎症。」
しかし何度医者に行ってもいっこうに良くならずむしろ痛みは強くなるばかり・・。
11月になると痛みの余り学校に行けなくなることもあった。
そしてある朝起きると痛くて動けない。
立てない。パニックになった俺は親に電話をしたところ
「救急車を呼びなさい!!」と。
俺は人生初の救急車を体験し近くの病院に運ばれた。
母は心配し、来ると言っていたが大したことは無いと断った。
1週間ほど入院をすると痛みも薄れてきてそろそろ退院かなと思った頃、
母から電話が来た。
「先生に呼ばれたから明日朝一の飛行機で行くから。」
次の日母は俺の前に心配そうな顔をして現れた。
「大丈夫だって。」
俺がそう言うと母は
「元気そうだね。安心した。」
そう言った。
- 516 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/05/16 21:52 ID:Ms8H8rY2
- その後、母は医者に「お話があります」と呼ばれた。
「じゃあ行って来るね」
20分位たつと、俺も看護婦さんに連れられ母と医者の待つ部屋に呼ばれた。
そこには顔が引きつった顔の母がいた。
一生懸命に平静を装っている。
そこで俺は医者に次のようなことを言われた。
・足に腫瘍がある
・ここではその腫瘍について分からないから大きい病院に移って検査しなくてはいけないこと。
・それには故郷の大学病院に行くのがいいということ
俺は唖然とした。
母は「とりあえず帰ろう」と言う。
結局、説得され帰ることになった。
- 517 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/05/16 22:08 ID:Ms8H8rY2
- 俺は「腫瘍」というものが何かよく分かっていなかった。
だから軽く検査してまた1ヶ月位したら戻ってこれるな。と思っていた。
しかし転院後、すぐ検査をし主治医に言われた言葉は
「良性とも悪性とも言えない。だけれど3ヶ月点滴をして無くさなければならない」
俺にはそれだけで大ショックだった。
しかし家族の「3ヶ月頑張ろう!」と言う言葉に励まされて頑張った。
母は実家から1時間半もかかる病院まで毎日来てくれた。
吹雪の日でもいつも笑顔で来てくれた。
治療の点滴の副作用は強く、激しい嘔吐、髪は抜け、体力も落ちた。
もうお気づきの方もいるかもしれないが抗がん剤治療である。
しかし無知な自分は何も気づかずに3ヶ月間頑張った。
気づかないというより気づかせられなかった。
家族が隠しとうしたのである。
そう。俺は悪性だったのだ。体中に転移し、医者から家族に言われた言葉は
「3ヶ月持つかわかりません。」だった。
- 518 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/05/16 22:25 ID:Ms8H8rY2
- その事を聞いたのは2月だった。
その時、3ヶ月で奇跡とも言う位に薬が効き、転移していた所は全て消え
元の腫瘍も5分の1まで小さくなっていた。
それで母は俺に癌の告知をした。
俺は涙が止まらなかった。
それは自分の病気のことよりも今まで俺にばれないように隠してくれた母のやさしさに気づいたからだった。
父も妹にもそうなのだが、何より余り仲の良くなかった母に申し訳なかった。
いつも隣にいて、たわいも無い話をするのがどんなに大変だったのだろうか。
しかも東京の病院から隠したのである。
治療がつらく母に当たっても何一つ文句を言わずただひたすら励ましてくれた。
俺は初めて家族の愛を知った。
それからも治療はうまく進み、ついに「完治します」という言葉が医者の口からでた。
あと3ヶ月ほど治療が続くが、俺はそれを乗り超えたときに両親にに言いたい言葉がある。
「俺を生んでくれてありがとう。」
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