No.179 阪神大震災が起こった瞬間 1995 part2の続き より
- 100 名前:名無しさんダーバード 投稿日:02/01/17 01:05
- また1月17日だね。
あの時は、地震の4時間ほど前に壊れた阪神高速通ってた。
途中にタバコ吸いたくなって、路肩にバイクとめてタバコ吸ってたら
やけに月が真っ赤で気持ち悪かったの覚えている。
地震発生時は夢の中だったが、最初の衝撃で目がさめたとき
地震とは判断できず、これはポルターガイストなのかと思ってしまった。
TVで地震とわかり、時間と共に、被害の状況が徐々にわかってきて
昨日(正確には今日)通った高速道路が崩壊しているのみて
あと数時間の差で自分も死んでたかもって思って怖くなってきたよ。
大阪市内にある会社へは電車不通のためバイクで出勤。
会議室でTV見てて、死者の数がどんどん増えていくのに涙でそうになったよ。
その後車で豊中方面へいったのだが、大阪市内は全然普通の状態だった。
自動車教習所の仮免つけた車が走ってたの今でも覚えてる。
しかし、豊中方面から伊丹・尼崎方面へ行くと、民家が崩れ
道路はボロボロで、距離にして10kmも離れていないのに
被害が全然違うことに衝撃を受けた。
あれからもう7年もたつんだね。
今でも時々夢を見るよ。
- 125 名前:名無しさんダーバード 投稿日:02/01/17 11:08
- 三重県津市。震度4だったと記憶している。
息子が当時生後10ヶ月で、夫婦揃って赤ん坊に覆い被さった。
テレビをつけたのは8時を過ぎてからだった。
「今朝の地震、どうだったんだろう」と思いながらリモコンの電源を入れた。
その時、目に飛び込んできた光景は忘れられない。
その日、テレビで読み上げられる名簿の名前に涙が止まらなかった。
見ず知らずの人々の名前であったが、その人達が亡くなり、或いは瓦礫の下にいる…
そう思うと、涙が出た。幼い子供がおり、仕事もあり、何もできずにいたけれど、
どうか一人でも多くの人が助かって欲しいと祈らずにはいられなかった。
改めて、合掌
- 126 名前:名無しさんダーバード 投稿日:02/01/17 11:19
- 自然の凄さと、人間社会の脆さを感じずにはいられない。
俺の従兄が神戸在住で、以前言っていた。
「俺はあの震災で死なずに済んだ。だからこれから何があっても怖くない。
乗り越えていける。亡くなった人達の分も、俺達はしっかり生きなくちゃならない。
人生何が起こるか分からない、一寸先は闇だというが、だからこそ、頑張らなくてはならない」。
俺はその言葉を肝に銘じている。そのつもりだ。
- 141 名前:名無しさんダーバード 投稿日:02/01/17 23:08
- 当時13歳のリアル厨房だった俺は世界が自分中心に回っていると勘違いしてた。
自分には何でもできる、未来には無限の可能性があると本気で信じていた。
周りの事など考えず、将来の事も全く考えていなかった。
だけど7年前のあの日にすべてが変わった。
倒れた柱に挟まれ、頭から血を流しながら動かなくなっている父親。
潰れた家から必死に助けを求めてくる声。
200mほど離れた場所で煙を吐きながら燃えさかる巨大な炎。
俺は足を骨折した母親を背負い、突然の出来事に呆然としている弟を連れて必死に避難所まで走った。
俺自身も肋骨にヒビが入り、割れたガラスで9針縫う傷を腕に負っていたが、
あまりに現実離れした光景に頭が麻痺してしまったのか全く痛みは感じなかった。
避難所に向かう途中の事はよく覚えていない。
ただ「夢ならさめてくれ」と思ったことを覚えている。
- 229 名前:名無しさんダーバード 投稿日:02/05/26 22:55
- 親と川の字になって寝ていたのだが、
最初、雹が降ってきた!と思って目が覚めた。
目の前で、親父が必死で倒れてきそうなタンスを手で押さえてた
のが見えたな。だが既に、自分はタンスの下敷きになっていた。
(軽いタンスだったので、何ともなかったが)
母の友人の女性は、子ども3人をかばって手で抱いたまま圧死したそうだ。
尼崎市 死者は48人。自分は小学校3年生だった。
- 519 名前:名無しさんダーバード 投稿日:02/10/04 20:48 ID:FGIxFyFV
- あの時、私は東京から引っ越してきたばかりの10才でした
父親と兄弟は地元の親戚の家に泊まりに行き、
母は祖母が急に容態が悪くなって実家の東京に戻っていたんです。
私は具合が悪くて家に独りぼっちでした。
地震が発生。家が物凄く揺れたのを感じてなんかぶつかったのを感じ
て意識が亡くなりました。
(後日、父・兄弟共々親戚と一緒に亡くなった事が分かりました。)
気付いたら外が見えます。だけど、一歩も動けませんでした。
私は、生き埋め状態になってたんです。
「誰か助けて!」と叫んでも、だれも見向きもしないで。
夜になって1人で凄く寒くて、死んじゃう‥と思ってたら
隣に住んでたFちゃんが目の前に居ました。Fちゃんはなんとか私を助けようと
色々としましたが、結局びくともしなくて側に居てくれました。
いったん戻ってた近所の皆はFちゃんをみて「避難所へいけ」と言ったけど
誰1人として私のコトを見ようとしなかった。
Fちゃんが持ってた非常食と水を少しずつ分け合ってくれながら
救助が来るのを待ってました。
しばらくして、迷彩服の自衛隊(?)の人が数名来て
家の残骸を手作業で3、4時間くらいかけて退かして助けてくれました。
安心したのか分からなかったけど
泣き出した私を抱き上げて頭を撫でてくれたあの感触を私は忘れません。
あの後ろ姿は一生忘れません。格好よかった。救世主だった。
今、私は東京で母とFちゃんと暮らしてます。
(Fちゃんの御両親は、亡くなられてました。
たらい回しになってたのを翌年聞いてお養子として一緒に暮らしてます)
あの時、助けてくれた自衛隊?の人たちにもう一度会えたなら
今度こそはっきりと「ありがとう」と言いたい
- 560 名前:名無しさんダーバード 投稿日:02/12/08 07:12 ID:5B6F3fpS
- >>519さん すまん、泣いたよ・・・・。
俺も叔母が神戸の灘区にいたので
当日の夕方頃現地入りした。
電車は止まってるわタクシーもダメでかなり歩いた。
近付くにつれ恐ろしい光景に・・・・。
火事はまだそんなにはひどくなかったが
それでも所々から煙りが見えました。
叔母は翌日公民館(だったかな?)で無事発見。
ほっとしたが、帰る気にもなれず、
若い奴ら12人でみすぼらしい救出隊結成。
一度火災に包囲されてだめかと思った瞬間があった。
まだ燃えてない家のドアをブチやぶって、
なんとか脱出ルート確保できた。
15人を掘り出す事に成功するも、
その何倍もの人命を救えなかったです。
15歳のお孫さんを失ったおじいさんが
気丈に俺達に礼を言ってくれた。
なんと言っていいか解らなかったです。
阪神大震災の時、あなたは何をしていた? より
- 47 名前:元自37 投稿日:2001/01/02(火) 01:27
- 18日に、大型ヘリのチヌークで王子競技場入り、
そこから東灘区まで、装具を担いで、徒歩移動。
布団を被って移動する被災者をたくさん見る。
サイレンの音が、絶えない。
ヘリの爆音も絶えない。
2号線のトラックの列は動かない。
屋根が硬い。
タンスが壊しにくい。
布団が剥ぎにくい。
重い。
忘れられない。
- 91 名前:レド公路の水上少将 投稿日:2001/06/13(水) 22:23
- 震災の何日か後の夜、街をあるいていて
ふと、道端に止めてあったJ隊のトラックの中をのぞくと
荷台にぎっしり並んだ隊員が、
座ったままで仮眠を取っていたそうです。
それを見た友人は
なぜか涙が止まらなかったそうです。
ある私の尊敬する方から聞いた話でした。
- 373 名前:剣恒光 投稿日:02/03/17 21:46
- 休暇の最終日で起きたくねえなっと思ってたら本棚に潰された。
だから当日は崩壊したご近所を助けてた。その後母と妹に家を任せて原隊に。
下半身が潰れてなかった、女子高生が可愛かった。夢に見る。生きてると思って引きずり出したんだが。
けど震災で自衛官をちょっと見直した(藁
うちの部隊の何かあったら逃げると公言してたやつや、すぐさぼる怠け者が、率先して瓦礫に潜り込んでいった。
可愛そうだったのが母親の死んだ1士、黙々と働いてた。
- 596 名前:専守防衛さん 投稿日:02/09/02 15:19
- 芦屋市民です
当時中2でした
マンションですが、家具がすべて倒れてドアが開かなくなりパニックでした。
電気が回復したのは7:30ゴロ、水道が回復したのは2月の末、ガスは3月の末だったと
思います。
蛇口から水が出るって事に感動したのはこの辺の人だけでしょうね
地震から四日目、学校がいつ始まるのか見に行きました。
職員室には誰もいなかったので、ひょっとして授業やってるのか?
と思い、自分の教室に行きました。
すると・・・机が班の隊形にしてあって、その上に遺体の入った棺が。
一教室に8体ぐらいの遺体がありました。
それも一学年の教室全部に。
廊下には泣き崩れる遺族の方の居ました。
私が生涯忘れる事のない思い出です。
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